2020-04-26(Sun)

栃木県鹿沼市五軒町遊郭跡地を歩く。

栃木県の真ん中より少し西にある鹿沼市。

戦国時代は壬生氏という大名が築いた鹿沼城の城下町だったが、壬生氏が滅亡しお城が廃城になり、江戸時代以降は日光例幣使街道が整備され、宿場町として発展した。

鹿沼にはかつて遊郭があり、その名残を探しながら街の中を歩いてみた。

鹿沼
まず、ここが例幣使街道。この石橋町付近を中心に宿が多く立ち並び、その中に飯盛女(女郎さん)を置いた飯盛旅籠(貸座敷、妓楼、女郎屋とほぼ同義)も存在していた。それらが後の遊郭のルーツとなる。


場所はこのあたり。

まだ遊郭が出来る前、1899(明治32)年5月6日の「下野新聞」には、石橋町に貸座敷が7楼、娼妓(女郎さん)は60余名いると記載されている。妓楼名は小林楼を筆頭とし、他、清水楼、竹澤楼、斎藤楼、柏木楼、新藤楼、東楼の名前が記載されている。

ちょっと横道にそれるが1907(明治40)年11月1日の「下野新聞」には面白い記事がある。

若い頃柏木楼に養子となり女郎屋の亭主になった高橋元四郎という方がいる。

この方は後に国会議員になるのだが、県会議員になった時、貸座敷を奥さんに譲ろうとし「貸座敷営業相続願」という類のない願書を県庁に出したところ「貸座敷の営業に相続権なるものを適用するに非ず」と突っ返されてしまった。そこでいったん廃業し改めて奥さんが営業を願い出て許可されてホッと胸を撫で下ろしたという。この当時もさすがに風俗店主が議員というのはまずかったのだろうか。そしていったん廃業してまた奥さんが営業願を出せばいいよ、というユルさも当時の雰囲気が伝わってくる。

鹿沼
横道にそれたついでにもうひとつ、石橋町付近の例幣使街道から横道にそれると花街だったエリアに入る。

鹿沼

鹿沼

鹿沼
画像はそれぞれ当時からの料亭「喜楽」(閉業)、「梅月」、「鳥長」。検番もこのあたりにあった。梅月と鳥長の通りは「出世街道」と呼ばれ、一旗揚げてここで飲むのが憧れだったという。

「喜楽」の歪みながらも必死に残っている感、「梅月」の塀の穴から伸びている木や「かばやき」の看板がとてもいい味を出している。

遊郭はその直後1908(明治41年)に出来た。街中に堂々と妓楼があるのは風紀上よくないということで、現在の下田町2丁目に遊郭を建設し、上記の妓楼の内齋藤楼、東楼を除く5軒が移転したことから「五軒町遊郭」と呼ばれた。はじめは奈佐原からも1軒加わる予定だったので、実現していれば六軒町になっていたかも知れなかったという。


場所はこのあたり。

ちなみに奈佐原は鹿沼からほど近い宿場町。鹿沼と同様に飯盛旅籠由来の貸座敷があったが、最終的には遊郭指定場所からは除外され消滅している。

鹿沼
これが遊郭の見取り図。(「かぬま郷土史散歩」柳田芳男著より)

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こちらは松井天山による鳥瞰図「栃木県都賀郡鹿沼町実景」に描かれている大正時代の五軒町遊郭。

遊郭が一番栄えたのは大正時代の関東大震災前だと言われている。お盆になると遊郭中央の広場に櫓を建て盆踊り大会が行われた。近隣から多数の人が訪れ、藝妓や娼妓達も入り乱れて踊り狂い大盛り上がりだったという。踊りが終わると遊郭の東縁にある木島用水の川止めをして魚を捕っていた。木島用水は今でも残っている。ちなみに自分が訪ねた時は全く水がなく干上がっていた。

やがて昭和の世になると緊縮の時代となり、日中戦争が始まるとメインの客層であった若い男性達は徴兵され、「贅沢は敵だ」という風潮になり遊郭は寂れていった。遂に終戦1年前の1944年(昭和19)年、日本医療団県支部が遊郭総坪700坪を27万円で買い取り、病室及び医師・職員・看護師の宿舎を併設した診療所になってしまい、遊郭としての幕を閉じた。

遊郭がなくなってからは大門があった通りが東に延びて郭を南北に分断する形になり、また、通りも広がり面影はほとんど残っていない。参考文献によると大門は道路改修で移動し、下田町1丁目の某運送会社の門柱となっている、と記されていたが現在当該場所にその運送会社はなかった。

鹿沼
わずかな面影を残すものその1。この建物は現在はゲストハウスになっているが、かつては「竹澤旅館」(閉業)であった。5軒の妓楼のうちの「竹澤楼」が旅館に転業したものである。もちろん見た通り遊郭時代の建物ではない。

一方、明治時代の竹澤楼の電話番号は「62」だった。そして竹澤旅館の電話番号は「0289-62-2062」で、下2桁が一致する。これはずっと受け継がれてきた電話番号の名残りではないだろうか。

鹿沼
面影その2。ゲストハウス付近の電柱を見ると「新地」と書かれているものが何本か残っている。「新地」とは新しく切り開らかれたエリアのことで、新たに作られた遊郭と同義語である。これらの電柱がある区域がほぼ遊郭のエリアだったと見て良いだろう。

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面影その3。見取り図にも出ている「椿森稲荷」。1867(慶応3)年中田町の菊地平内さんという方のお屋敷に創建され、1909(明治42)年に遊郭内に遷座。戦後、旧竹澤旅館から程近い小林医院の横に移されている。ちゃんと椿の花が咲いているのがエモい。

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敷地の奥に遷座記念碑がある。裏面を読むと「金20円 各楼内働一同」と記載されており5軒の妓楼の名残りを見ることが出来る。また、「灯籠 検番」「手洗石 藝妓」なども刻まれていて、花街の名残りもあった。残念ながら検番が献じた灯籠や芸者さん達が献じた手洗石は残っていなかった。

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面影その4。五軒町遊郭の近くにあった「冨士川」。1908(明治41)年創業の老舗蕎麦屋さんで、

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さきほどの鳥瞰図にも遊郭のそばに描かれている。

「冨士川」はもともと古物商だったが、遊郭が出来てからは旦那衆に蕎麦の出前を始めたところ評判となり蕎麦屋が本業になっていったという。

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ここで鹿沼ご当地グルメ「ニラ蕎麦」を食べた。ニラがみずみずしく、香りが豊かで美味しくて満足。

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遊郭跡地を離れしばし散策。時折目につく古い建物たち。これは門がユニークで一部がバス停になっている元材木店。

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掲示されたままの昔の商工案内図。地元の人ならこれを眺めながらかつての街並み、風景を思い起こせるのだろう。「あなたとの出逢い ブティック&コーヒ マシュポン」に行ってみたい。

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向い側にあったお寿司屋さん。今もやってるのだろうか。

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開化丼食べたい。

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あまや食堂。

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喫茶店。

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例幣使街道沿いの立派な旧家。

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これは遊郭エリア内にあった建物。ちょっと古い建物を見ただけで妓楼かと思ってしまう。

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みごとにシャッターだらけの「銀座通り」。日曜日だったので定休日のお店が多かったのだろうが、空き店舗も目立つ。

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「武器屋」って感じのお店。カッコイイ。

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あまりヤングな感じがしない鹿沼ヤングボウル。

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例幣使街道を北上すると「千手山公園」がある。アーチがイカス。

鹿沼

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ここは小さな観覧車やミニ機関車などがあるこぢんまりとした遊園地で、乗り賃なんと1回50円。

鹿沼
観覧車から鹿沼の街を見降ろす。桜がちょうどいい感じ。

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アーチに見送られて千手山公園を後にする。

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「川上澄生美術館」。川上澄生は旧宇都宮中学(現宇都宮高)や宇都宮女子高で教鞭を執っていた栃木県にゆかりのある版画家。代表作「初夏の風」は、棟方志功に版画の道へ進む決意をさせるきっかけとなったという。

この美術館は川上澄生の教え子であり地元の豪商であった長谷川勝三郎が収集した作品約2千点が収蔵されている。

鹿沼

鹿沼
ここで「風景の川上澄生」という図録を買う。宇都宮遊郭(新地)の作品が3点掲載されているのだ。塔のようなものが描かれているが

宇都宮遊郭
これは時計台が有名だった「小松楼」という妓楼である。

本当は実物を見たかったのだが、いつも展示されている作品ではないので残念だった。図録を買ったら展示会のポスターを貰ってしまった。

僕は栃木県出身であるが、鹿沼には全く用がなかったので一度も訪れたことがなかった。しかしこうして鹿沼のことを調べてみると行きたいところ、見たいもの、確かめたいものが沢山出て来る魅力的な街であった。

また、市全体も自分たちの歴史を大切に守り、消えないように努力している姿勢が感じられるような雰囲気だった。

参考文献

「かぬま郷土史散歩」柳田芳男
「鹿沼市史」鹿沼市

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