2020-02-02(Sun)

xiangyu「BAYCAMP20202」川崎 CLUB CITTA'+A'TTIC 2020.02.01

冬のBAYCAMP(ベイキャン)でのxiangyuちゃんライブ。

ベイキャンとは、夏は東扇島のでかい野外ステージにて行われ、冬は川崎駅から程近いラ・チッタ・デッラ内にあるライブハウス、クラブチッタにて行われる。

ラ・チッタ・デッラは、飲む(飲み屋街)、打つ(川崎競馬・川崎競輪)、買う(堀之内ソープランド街)のオッサン好みの街三冠王である川崎にあっても、イタリアのヒルタウン(丘の上の街)をモチーフに作られたシャレオツなエリアである。

音楽のライブチッタ、映画のチネチッタを中心に綺麗な街並みになっている。他にも色々魅力があるエリアだが忘れチッタ。なんちて。

xiangyuちゃんのライブに話を戻す。

冬のベイキャンはライブステージがふたつあり、僕はずっとひとつめのステージで観ていたのだけれども、彼女が出るステージはもうひとつめのところだったので、ライブが始まる23:10ちょい前、そのステージに行こうとしたら、僕は迷ってしまい、関係者入口に入ろうとしてしまっていた。

当然スタッフの人に止められてゴメンナサイしたのだが、

「ここは入れませんよーあはは」

たまたま出て来たxiangyuちゃんに見られてしまった。恥ずかしい。

定刻に始まったライブは観客でほぼギッチギチの状態で熱く、彼女もその熱気をそのまま跳ね返す如く非常にノリノリだった。


いやー、素晴らし過ぎる。

ステージの柵を越えて客に突っ込んで行くシャンちゃん。

飛び込んで行くのはいいけど戻る方が大変という。なんか分かる笑。



ライブの最後は「風呂に入らず寝ちまった」。

これまで非常に緻密で激しいダンスミュージックで熱く盛り上がっていた流れに、締めにメロウさをぶっこんできたバラードと言っていい曲。

ダラダラ過ごしてもいいじゃない、という曲なので、まさに今土曜日のオールナイトイベントにいる僕らに日曜日は一日中ダラダラしてもいいんじゃない?と語りかけているようなエモい曲である。

こうしてxiangyuちゃんは観客の心に幸せを残し、ライブは終わった。

僕はxiangyuちゃんのライブ後速攻で帰らないと終電が間に合わないのですぐ帰ったが、

xiangyu

xiangyu
残っていた方からその後の物販でのxiangyuちゃんの画像を姿を送っていただいたのでありがたく使わせていただきまんもす。いやーん。可愛い。

風呂に入らず寝ちまった、というのはxiangyuちゃんの持論であるが、音楽のクラブチッタ、映画のシネチッタがあるこの川崎、クラブチッタから出た後に映画を観て帰ってもいいかもしれない。

風呂に入らずチネチッター。なんちて。

【セットリスト】

1.Go Mistake
2.ピアノダンパー激似しめ鯖
3.プーパッポンカリー
4.菌根菌
5.ヒジのビリビリ
6.秒でピック白
7.home
8.風呂に入らず寝ちまった

↓クリックお願いします↓

クリックしてね!←これだけでもいいので押してね。
ブログランキング・にほんブログ村へ←こちらもできれば。

はてなアンテナに追加

2020-02-23(Sun)

栃木県塩原温泉の名物女装有名人「おいらん清ちゃん」

昭和の初め頃、栃木県の塩原温泉にちょっと変わった有名人がいた。

おいらん清ちゃん
彼はいつも女装しており、「女髪結」(≒美容師)として女性の髪を結ったり、また、芸者としてお座敷に上ったりしていた。現代風に言うとカリスマ美容師兼オカマタレントみたいな感じだろうか。

【見出し】

1.塩原温泉の女髪結「おいらん清ちゃん」
2.清ちゃんの少年時代
3.清ちゃんの上京、師匠との出会い
4.清ちゃんの髪結修行、そして独立
5.遊芸人の清ちゃん
6.清ちゃんの恋愛
7.清ちゃんと軍隊
(1)最初の召集
(2)2度目の召集
(1)3度目の召集
8.清ちゃんの最期

1.塩原温泉の女髪結「おいらん清ちゃん」



本名を八木澤清吉(やぎさわせいきち)という。栃木県塩原温泉生れ。横浜で女髪結の修行を積んだ後地元塩原温泉で開業。その後芸者としても活躍。人呼んで

「おいらん清ちゃん」

清ちゃん自身は自分のことを「清子」と言う。清ちゃんに「八木澤君」などと呼んでは返事をしてくれない。「八木澤さん」でもいけない。「清ちゃん」「清子ちゃん」「お清さん」または「お師匠さん」と呼べばニッコリと振り返って、

「ナアーニ?」

と首をかしげて上目遣いで返事をしてくれる。

「女髪結」は当時は殆どが女性だったが清ちゃんの技術は優秀だった。何しろ男の力だから髷がよく締まり、とある当時の人気映画女優は塩原に来る時は必ず清ちゃんに髪を結ってもらっていた。繁昌してたようで、塩原温泉に一軒家を借り、数人の梳き子(髪結の助手)を雇っていた。

清ちゃんは自前の長髪を日本髪に結い、濃い化粧をし、すっぴんの顔は梳き子達にも見せたことがない。しかし白粉をべったり塗っていても髭が濃いので剃り跡が隠せないことが悩みの種。身長は五尺五寸(170センチ弱)、手足はゴツゴツして大きく、体格は良かった。

「女だってこれ程の器量良しは少ない」というベタ褒めのものから「瓜実顔で愛嬌に富んでいる」「ちょっとすごみのある美人」「女にない美しさがないでもない」というオブラートに包んだもの、「悪い意味で女形的、女形といっても名優には勿論及びもつかない」「はっきり言えばグロ」などとストレートなものまである。

髪結以外にも女性の仕事が好きな清ちゃんは女装の芸者として宴会に呼ばれ重宝がられた。

髪結の確かな技術で信用を、生まれつきの愛嬌のあるキャラで人気を得た清ちゃんは、芸能人でもないのに地元栃木県の新聞である「下野新聞」にちょくちょく記事や写真が載ったり、東京の読売新聞や東京朝日新聞などの記者がインタビューをしに訪れる程の有名人になった。

しかし今となっては清ちゃんについてのまとまった資料は殆どない。なので当時の新聞・雑誌記事や戦後書かれたエッセイなどを手掛かりにし、清ちゃんの生い立ちを探り、まとめてみた。

2.清ちゃんの少年時代


清ちゃんは1900(明治33)年頃、塩原の農家に生まれた。8人兄弟の長男だった。

幼少の頃から女性の髪の毛に異常に興味を持っていたようで、小学校では同級生の女の子の髪をいじり、お下げを結ってやったりしていた。本人曰く

「女の髪の毛を手に触れていると何ともいえない佳い気持ちなのよ」

「まあ、変態なんでございましょうねえ」

小学校時代から「おとこおんな」とあだ名を付けられていたという。

実家は貧乏だったので11才の時に八百屋の小僧に出された。それでも女性の髪が好きであることは変らず、暇さえあれば近所の子供やおかみさんの髪をなぜつけてやったり結ってやったりしていた。

また、女性の髪のみならず話し方、帯のしめ方、女性らしさの全てに対しての憧れが強くなっていった。

17の時、八百屋を辞め酢酸会社の職工となったがそこでも女性の髪が好きで同じ会社の女工達の髪を借りては髪結の練習をしており、やがて髪結として身を立てようと決心をした。

しかし世間は厳しく、清ちゃんはあらゆるツテを辿って髪結の師匠を探したが、男と知れた途端ことごとく断られてしまう。そのうち酢酸会社が営業を休止し、清ちゃんも辞めざるを得なくなる。この時既に19才になっていた。

3.清ちゃんの上京、師匠との出会い


職工を辞めた清ちゃんは、東京に出て髪結の師匠を探そうと決心する。ちょうど友人の1人が上京することを知り、頼み込んで同行させてもらった。

初めての東京に目を丸くした清ちゃんだったが、横浜に父の知り合いがいることを思い出し、横浜に向った。しかしその知り合いは転居しており会えず、自力で師匠を探すこととしたが、やはり横浜でも断られ続け、金も無くなってきた。

街角の貼り紙にあった人夫募集を見て赴いたところ採用されたが余りの仕事の激務さに半日で逃げ出した。やがて人造肥料会社の職工となり、下宿から通った。しかし髪結への夢は持ったままだった。

ある日下宿先の奥さんの髪を借りて丸髷を結ったところ、驚くほどの出来の良さに奥さんが感心し、こんないい腕なのに何故職工をやっているのか、と聞かれたので、これまでの事情を語ったところ、奥さんは心から同情してくれた。

そして奥さんの斡旋で遂に横浜市羽衣町2丁目の神奈川高等美髪学校校長・齋藤わか子氏という立派な師匠に付くことが出来た。清ちゃんはこの時ほど嬉しかったことはない、と後々まで語った。

(※清ちゃんが最初に働いた八百屋は横浜にあったという説もある。清ちゃんの姉が嫁いだ先だったツテで小僧に出されたという。八百屋の隣に髪結があり、八百屋の仕事そっちのけで髪結に入り浸り、その縁で弟子入りした、とも。この説によれば清ちゃんは11才で横浜に行き、17才で師匠に付いたことになる)

4.清ちゃんの髪結修行、そして独立


おいらん清ちゃん
清ちゃんは念願の師匠の元で職工を続けながら毎日一所懸命修行に励んだ。1日働いて疲れた身体も忘れ、上達していった。だんだんと女性の着物を身に着けるようになってきたのもこの頃らしい。

しかしこの頃は徴兵制度があったので清ちゃんも召集されてしまう。徴兵検査で甲種合格し、宇都宮歩兵第59連隊に入営する。軍隊と清ちゃんについては別途述べたい。

幸い1年で帰休除隊となり再び師匠の元へ戻った。やがて師匠の信用を得、ついに長者町に店を出すことが出来た。1923(大正12)年頃のことだろう。長者町のほど近くには花街があり、良いロケーションだったのではないだろうか。

ところがその8か月後に関東大震災が横浜を直撃。清ちゃんは辛うじて助かったが店を失った。清ちゃんはもう一度師匠の世話になることを決意、師匠も快く迎えてくれた。師匠の暖かい心に感激した清ちゃんはより一層精を出して働いた。

師匠は清ちゃんの今後を考え、いっそのこと塩原に帰り、故郷で店を出す事を勧めた。当時の塩原温泉は政治家や文化人、著名人も訪れる有名な観光地であり、芸者もたくさんいた。清ちゃんは師匠に感謝しつつ帰郷、立派な一人前の髪結として店を出し、故郷に錦を飾ったのであった。

清ちゃんの女髪結のルーツは「女性の髪への異常な興味」であり、女装を好むのも女性のしぐさ、装い等の女性への憧れであった。下宿先の奥さんが斡旋してくれたのも、良い師匠に出会えたのも、清ちゃんの髪結への一途な姿勢と絶え間ない努力によるものだったろう。

5.遊芸人の清ちゃん


おいらん清ちゃん
清ちゃんは余程女性の仕事が好きなのだろうか。髪結となってからも生け花、茶の湯、琴、三味線、舞踊なども習得し、正式に届出の手続きをして遊芸人の鑑札を得た。好きなこともあるし元々何事にも器用なのかもしれない。鑑札というのは芸者としての登録のことで、モグリではダメなのである。

その時のことが1931(昭和6)年の「下野新聞」に記載されている。以下はその要約。

取材に来た記者に対し、とあるお座敷に呼ばれて出掛けようとしていた清ちゃんは足を止め、

「私、鑑札なんか受けるのは嫌なんだけど警察の方でも中々やかましいんだものしょうがないわ…」

などと愛嬌たっぷりに話し、

「お客さんが待ってるでしょうから失礼しますわ」

と馬車に乗ろうとする清ちゃんに記者がカメラを向けたところ

「いやよー」

と言いながらも真面目な顔で立ち止まってくれた…

以上のようなことが書かれ、そのキメ顔とキメポーズを取った写真も載せられている。清ちゃんもノリノリだし記者もウキウキしながら書いている感じがする。

お座敷での清ちゃんの身なりや仕草はまるっきり女性であったという。ただし着物から覗く手足や首は太くて毛深かった。声はえらく女性っぽいが、調子に乗ってくると馬鹿に野太い男の声を出す一面もあった。

根っからの愛嬌者ということもあり人気者となり、政治家や要人にもたびたび呼ばれ、特に国家主義の大物、頭山満は塩原温泉での療養中に清ちゃんを気に入り毎夜のように晩酌のお供に呼んでいた。清ちゃんも

「話に聞くより好いおじいさんだわ」

と三味線や踊りを披露し大喜びだったという。

6.清ちゃんの恋愛


おいらん清ちゃん
清ちゃんには奥さんもしくは旦那さん的な存在はいなかったようだ。しかし恋愛関係になった人はいた。あまり詳細は分からないが少なくともふたり。

ひとりめは意外にも女性。1926または1927年、清ちゃんが塩原に戻って来て髪結を始めてからまだ年浅い頃だろうか。

塩原の料理店の女中で、通称「切られお辰」と呼ばれていた女性で、咽喉のところにすごい切り傷のある男のような女だったという。女性とはいえ男っぽいところに惹かれたのだろうか。

ふたりめは東京の大学生。塩原に来るたびに清ちゃんを呼んで遊んでいたところ別れかねる仲となり、手紙のやりとりも激しく、人目にさえ怪しまれる程になったという。

清ちゃんは稼いだお金のある限りこの学生と逢引したといい、町の人達も心配する程になっていたところ軍隊への召集(2回目:後述)がかかり、そこで関係は終わってしまったと思われる。

「清さんはどんな男が好きだい」

という新聞記者からの質問には

「わたしはこんな人間だけれど、にやけた男は大きらい、強そうな男が好きだわ」

と答えている。

7.清ちゃんと軍隊


(1)最初の召集


おいらん清ちゃんとはいえ、戸籍と体は男性なので徴兵からは逃れられない。彼は何度も軍隊から召集されている。

最初の徴兵があったのは清ちゃんが20才前後、1920(大正9)年頃ではないだろうか。横浜で髪結の師匠に付いて修行を始めた後であることは確かだ。身長五尺五寸(170センチ弱)、体格の立派な清ちゃんは甲種合格し、宇都宮歩兵第59連隊に入営、「八木澤清吉一等兵」となった。

在営中は、女らしい身ごなしのために隊長からひどくいじめられ同僚からも爪はじきにされたとも、練兵その他一切を大目に見られた代わりに将校の自宅を回って夫人の髪ばかりを結っていたとも言われている。在営1年にして帰休除隊となった。その時の嬉しかったこと嬉しかったこと、と本人は語っている。

大目に見られたとしてもそこは軍隊、それなりに鍛えられたようだ。1930年の「東京朝日新聞」の記事によると、清ちゃんに会いに来た新聞記者がお座敷でついぼんやりしていると

「あら、こちら、おすましね」

とトンと背中を叩かれたところ、清ちゃんは軽く叩いたつもりだろうが兵隊上がりの男の力だから馬鹿に痛い、と書いている。記者が苦笑いして尻込みし出すと

「おやおや、随分ね、よくってよ」

と言いながら今度はつねろうとしたという。

1度目の軍隊から戻ってしばらく、この1年のことはあまり話したくなかったらしい。1929年の「読売新聞」によるインタビューでは、

「そうだ、清さんは軍隊へ行ったんだそうだね」

と聞くと

「軍隊の話はよして頂戴な」

と言われてしまった。なので記者は聞き方をこう変えて話を続けた。

「じゃあ、女学校としよう、清さんはどこの女学校へ入ったの」

「宇都宮歩兵第59連隊」

「ホウ、これはいかめしい」

このやりとり、軍隊の話はよして頂戴とスネて記者に「女学校」と言い直させておきながら「宇都宮歩兵第59連隊」と素直に答えているのが清ちゃんの人の良さというか愛嬌が出ていて面白い。

簡閲点呼(予備役である在郷の兵を定期的に集め教育する)についても、お座敷で馴染みのお客さんが

「清ちゃん、今年は点呼だろう」

と聞いたところ、清ちゃんはたちまち膨れ上がってしまい、返事もしないで三味線をジャンジャンと鳴らし出したというから、この当時の清ちゃんにとっては余程タブーだったのだろう。

(2)2度目の召集


2度目の入営は1932(昭和7年)。わざわざ「下野新聞」の記事になった。普段の女装姿、および化粧を落とし坊主頭になった姿の写真が掲載されている。女性より美しいのではと言われた長髪を切った時、清ちゃんは涙を流した。誰よりも髪が好きな清ちゃんのその辛さ、悲しさは想像を絶するものだったろう。

清ちゃんは別れに臨み、敬礼をした後に「あら、恥ずかしいわ」と言ったという。

結局この時は戦地に行くことはなく、留守役の後備歩兵としてすぐ戻ることが出来た。入営直後にこんなエピソードも残されている。

とある宇都宮憲兵分隊長が塩原温泉視察を終え、旅館で温泉に浸かり、晩酌もしていい気分になった。芸者も呼びたいどころだが職務柄流石にそうもいかず、考えた末に思い付いたのが塩原名物清ちゃん。早速電話をかけたところ前日帰郷したばかりだという清ちゃんは、分隊長の呼び出しにスワ何事かとすっ飛んで行き、

「後備歩兵一等兵八木澤清吉参りました」

ビシッと挨拶をした。分隊長は

「何日帰郷したか」

と聞けば

「ハッ昨日帰ったのであります」

これまたビシッと返事をしたので

「まあ、そう、固くならないでも良い、ゆっくり飲みながら語ろうよ」

と言う分隊長に清ちゃんは初めて「八木澤清吉一等兵」ではなく「おいらん清ちゃん」をお呼びだったのだ、と安堵の胸を撫で下ろすと、襟をすかして

「まあ何事かと思って驚いたわ、ぢゃあお酌をさして戴きますわ」

コロッと柔らかくなったので流石の分隊長も二の句が出なかったという。

軍隊から戻ってからは頭に束髪のカツラをかけ、厚化粧して元の如くお座敷でお勤めするようになったが、軍隊の鍛錬が行き届いたようで、以来、行儀の悪い人が戯れ言など言うと涼しい目をキッと見すえて、

「冗談を仰っちゃいけません、こう見えても国家の干城(「干」は盾の意。国を護る軍人のこと)です」

とたしなめるようになったそうだ。

本意かどうかは不明だが、清ちゃんが軍隊に入営するたびに、兵士としての誇りのようなものが見えて来るるのが興味深い。身なりも仕草も職業も女性的なものを追求しているのに、兵役という男性的な義務も併せてきちんと果たそうとしている。これが清ちゃんの誇りなのか、それとも逃げたくても逃げようがなかった当時の厳しさなのか。

それでもこの当時は満州事変直後の緊迫した情勢とはいえ、まだ呑気な雰囲気が残っているような気がする。

(3)3度目の召集


盧溝橋事件により日中間の戦争が激化して間もない1937(昭和12)年9月、清ちゃんはまたも召集を受けた。今回は留守隊ではなく戦闘の最前線、中国北部である。

清ちゃんは余程覚悟をしたのか、前回の時は涙を流して切った黒髪を、召集令状を受け取ったその日の内に一分狩りにしてしまった。その姿を見て

「あらお師匠さんが…」

と戸惑う梳き子や馴染の藝者さんを睨み、

「そんな事言わないで頂戴!もう今日から立派な国家の干城だわよ。今度はどんな事があったって留守なんかしやあしないわ!○。○○○(中国人に対する蔑称)連中を一蹴散らしにしてみんなをアッと言わしてやるから見ていてネ」

と気焔を吐いたという。前回の出征の際は見送りの人達には敬礼しつつも

「アラ恥ずかしいわ」

と照れたものだが今回は違う。正確な直立不動の姿勢を取り、敬礼をして

「軍人の本分を尽しに参ります」

と言ったため、見送る人達は声を合せて

「八木澤清吉君。万歳!」

を三唱した。

現地に着任した清ちゃんは、軍隊での生活の様子を手紙に書いて知人に送っており、そのいくつが「下野新聞」に掲載されている。清ちゃんは現地でも有名人だったようで

「私は知ってる人が多いので塩原のカーチャンカーチャンと言われていやになっちまいますよ」

とこぼしている。清ちゃんはこの時おそらく40才手前ぐらいであり、召集される年齢の上限に近い。若くして召集された兵達からすると姐さんというより「カーチャン」なのだろう。

「戦闘のない時はまるで子供の様に食べる事ばかり考えてのんきなものです」

ということだが、凄まじい戦闘の様子を何度も書いて送っている。

駅を守っていたところ敵の急襲を受け銃撃戦となったが補給手段がなく弾が残り3発となり、

「捕虜になるくらいなら自決せよ」

という母の言葉を思い出し死を覚悟したこと、間一髪装甲列車がやって来て敵を追い払ってくれて助かったこと、

見張りをしていた際、敵の斥候をいち早く見付け銃を撃ちまくり撃退し隊長に褒められたこと、など、戦場の最前線でいつ死んでもおかしくないような話ばかりであった。

おいらん清ちゃん
中国北部での清ちゃん。すっかり男。素顔はイケメンっぽい。小学生から送られて来た慰問袋に入っていた手紙に涙を流し、恩賜の煙草にも涙を流し、軍人として役に立てたことを喜んでいる。

また、作家・長谷川伸氏への手紙には

「万一、凱旋ができたら、女にはもうなりません」

「男の生活も楽しいものです」

と書いている。本心なのかどうかは分からないが、あれだけ女性に憧れて、軍隊の話などしたくなかった清ちゃんは、死闘を通じて変っていった。

8.清ちゃんの最期


3度目の召集から先の清ちゃんの様子ははっきりと分かっていない。ただ、残念ながら戦死したことは明らかである。

1956年発行の「のぞき眼鏡 : 随筆」によると、著者・田辺貞之助氏が1955年に塩原温泉の旅館を訪れた時、清ちゃんについて聞いたところ、

『そこの隠居さんらしいお婆さんが、「あの人は日支事変かなにかのときに戦死した」と教えてくれた』

という。

情報収集の頼みの綱はちょくちょく清ちゃんの記事を載せていた「下野新聞」なのだが、1938(昭和13)年3月、清ちゃんが中国の要人に揮毫して貰った書を塩原温泉のとある旅館に送った、という内容の記事以降、彼の記事を見つけることは出来なかった。

もし清ちゃんが戦死となれば、勿論そのことも記事になっているに違いないと思い戦時中の「下野新聞」を探してみたが、日中戦争が激しくなるにつれ戦争関連や戦没者の記事が多くなったので三面記事が減り、太平洋戦争が始まってからは物資が乏しくなったのか紙面が僅か2面に減り、更には1945(昭和20)年7月の宇都宮空襲により下野新聞社が被災したため7月から9月まで新聞が発行されていないという、清ちゃんどころではない状況であった。

戦没者の記事もチェックして清ちゃんの名前がないか確認したが、終戦の数ヶ月前から情報統制のためなのか戦没者の記事自体が全くなくなってしまった。

ようやく見付けたのは終戦後1945(昭和20)年10月の「下野新聞」。戦没者遺族に対しての「遺骨をお渡しします 海軍関係」という記事だった。そこに記載されている戦没者名簿の中に

「軍属 八木沢清吉 塩原」

とあった。同名だけでなく、塩原という地名も一致しているので清ちゃんで間違いないだろう。清ちゃんは最期は海軍に所属していたのだった。「軍属」とは直接戦闘に関わることのない事務方などの人達のこと。海軍の軍属の職業には理髪師もある。

これは想像だが、中国北部戦線での任期を終え帰って来た清ちゃんは先述のとおり、もう女装はしなかったのかもしれない。

戦時中はあらゆる贅沢・娯楽が制限され、芸者遊びのようなことも自粛して当然の風潮であり、清ちゃんも最早芸者として、そして芸者相手の髪結として活躍する場がなくなっていたのではないだろうか。

そのため女性ではなくて男性の髪ではあるが、これまでのスキルを活かし、理髪師として志願し(もしくは徴用され?)軍艦に乗込んで行ったのではないだろうか。そして海上のどこかで戦死した…。

太平洋戦争が激しくなる前まで「下野新聞」は、清ちゃんが要人のお気に入りになったとか、軍隊に召集を受けたとか、戦場からすさまじい内容の手紙を送って来たとか、いちいち何かあるたびに記事にするほどの清ちゃん好きだったのに、終戦後、英霊となってしまった清ちゃんには何一つ声をかけていない。いくら紙面が僅か2面に制限されていたとはいえ、悲し過ぎるではないか。

女髪結・芸者として技を磨いて女性らしく生き、軍人として男性らしくも生きた清ちゃん。真面目で器用でストイック、それでいて愛嬌があり本当に立派な人物だった。

心からご冥福を祈りたい。

【参考文献】

・下野新聞 1929(昭和4)年8月31日
      1931(昭和6)年4月8日
      1932(昭和7)年3月20日
      1932(昭和7)年3月25日
      1934(昭和9)年5月27日
      1937(昭和12)年9月18日
      1937(昭和12)年12月26日
      1938(昭和13)年2月5日
      1938(昭和13)年3月25日
      1945(昭和20)年10月15日

・読売新聞 1929(昭和4)年1月1日
      1932(昭和7)年9月23日
      1932(昭和7)年9月25日

・東京朝日新聞 1930(昭和5)年7月16日
        1938(昭和13)年1月15日

・「旅」/日本旅行協会 1934(昭和9)年4月号
・絵葉書「塩原名物女装 おいらん清ちゃん」/著者不明 1938(昭和13)年
・「のぞき眼鏡 : 随筆」/ 田辺貞之助 1956(昭和31)年 

↓クリックお願いします↓

クリックしてね!←これだけでもいいので押してね。
ブログランキング・にほんブログ村へ←こちらもできれば。

はてなアンテナに追加

2020-02-26(Wed)

xiangyu「『-Devotion-』中目黒solfa 2020.02.23

中目黒のクラブ「Solfa」でのxiangyuちゃんライブ。

こじんまりとしたラウンジとメインフロア、ふたつのスペースがあるところは恵比寿にあるクラブ「BATICA」に雰囲気がちょっと似ている。実は同じ系列なのである。

…とはxiangyuちゃんのマネージャーさんである福永さん(a.k.a.Dir.F)から教えてもらったことの受け売りである。中目にあるクラブ!ソルファ!

xiangyu
午前3:30頃メインフロアのステージにひらりと登場したシャンユーちゃんは今日もおしゃれな感じ。かわいくて全能感ある。

1曲目からゴミ捨ての曲「Go Mistake」で「あ、ごみしゅっしゅっしゃー!」と中目黒のしゃれおつクラバー達を沸かせており楽しさ全開。


こちらは「ピアノダンパー激似しめ鯖」。

ピアノダンパーってしめ鯖に似てるよね、という、気付いたら凄いけど気付かなくても一生困ることがないネタから生まれた曲。しょうもないネタと言ったら失礼だが、そこからここまで素晴らしく荘厳な曲を完成させたのは素晴らしい。

1曲1曲が心地よく響いていてやっぱりクラブ向けの曲なんだなと思う。隣で歌詞を叫びながら踊っている方がいて、xiangyuライブにて今までこんなテンションの高い&すげー曲聴き込んでそうなお客さん見たことない、と驚く。中目黒のクラブ恐るべし。

xiangyu
…と思ったら今日のイベントの主催者の方だった。xiangyuちゃんにステージに上げられて一緒に歌っていた。xiangyuちゃんが大好きでオファーしたんだなあ…というxiangyuちゃん愛で溢れていた。大音響の中でxiangyuちゃんの曲を歌えたらさぞ気持ちいいことだろう。

ライブはMC少なめでどんどん早く進行してゆく。また、楽曲のリリースのペースも速い。今日もまたもや初めて聴く新曲を披露。この曲は前回のライブで初披露したらしいが僕は行けなかったので初耳だ。

その新曲は「寝落ち」がテーマの曲で、非常にあるある感で満たされる曲。僕もコンタクトレンズ入れっぱなしで寝落ちして目がむちゃくちゃゴロゴロしたり、スマホ見ながら寝落ちしたら顔に落ちてきたり、そんなことがあるたびに自分のダメ人間っぷりを思い知らされるものだが、この曲を聴いて救われた気持ちになった。

最後の曲は「風呂に入らず寝ちまった」。これも「寝」関係の曲である。風呂には入らないわ寝落ちするわどんだけねむねむさんなんだ。

曲の途中でxiangyuちゃんがステージを降りてこちらに向ってズンズンやって来た。こちらを睨んでいるようだったが、睨んでいたのは僕ではなくその後ろであり、何があるんだと振り返ると、いつの間にかDir.Fさんが僕の背後で見上げる程の脚立を立てており、思わず「うおっ」と叫んでxiangyuちゃんが行けるようスペースを空けた。


脚立の上で歌うシャンちゃん。ミラーボールが後光のようで神々しい。

xiangyu

xiangyu

xiangyu
ライブ後写真を撮らせてもらおうとしたら物凄い勢いでバババッといろんなポーズを撮ってくれたが、慌ててしまってピンボケばかりになってしまい申し訳なく、もっかいお願いしたら

「まだやるの!」

と呆れられてしまった。

xiangyu
でもその後もナイスポーズ連発で撮らせてくれた。いつもすいません。

それにしても主催者さんの歌いっぷりが気持ちよさそうだったので、いつかxiangyuちゃんの曲がカラオケで歌えるようになれば、と感じた次第。…と思って調べてみたらなんとジョイサウンド系では「プーパッポンカリー」が入っているではないか。

カラオケで汗だくで歌って風呂に入って寝ちまうという幸せの黄金リレーがよい。

カラオケ風呂桶オールオッケー。なんちて。

【セットリスト】

1.Go Mistake
2.ピアノダンパー激似しめ鯖
3.プーパッポンカリー
4.菌根菌
5.ヒジのビリビリ
6.秒でピック白
7.home
8.新曲(曲名不明の寝落ちの歌)
9.風呂に入らず寝ちまった

↓クリックお願いします↓

クリックしてね!←これだけでもいいので押してね。
ブログランキング・にほんブログ村へ←こちらもできれば。

はてなアンテナに追加
バカ写真
INFO
ABOUT
  • ■サイトの変遷
  • '00年02月開設:リンクフリー。
  • 相互リンク受付けてません。
  • 無断転載不可。
  • ■作者
  • 名前:梶林
  • 家族:嫁と娘と息子
  • 住所:東京都
  • 好物:テクノ/美少女
  • バナー
最新コメント
メッセージはこちらから
リンク
ブログ内検索
あわせて読みたい
  • あわせて読みたい
カテゴリ
日記
FEED

Powered by FC2 Blog