2020-04-26(Sun)

栃木県鹿沼市五軒町遊郭跡地を歩く。

栃木県の真ん中より少し西にある鹿沼市。

戦国時代は壬生氏という大名が築いた鹿沼城の城下町だったが、壬生氏が滅亡しお城が廃城になり、江戸時代以降は日光例幣使街道が整備され、宿場町として発展した。

鹿沼にはかつて遊郭があり、その名残を探しながら街の中を歩いてみた。

鹿沼
まず、ここが例幣使街道。この石橋町付近を中心に宿が多く立ち並び、その中に飯盛女(女郎さん)を置いた飯盛旅籠(貸座敷、妓楼、女郎屋とほぼ同義)も存在していた。それらが後の遊郭のルーツとなる。


場所はこのあたり。

まだ遊郭が出来る前、1899(明治32)年5月6日の「下野新聞」には、石橋町に貸座敷が7楼、娼妓(女郎さん)は60余名いると記載されている。妓楼名は小林楼を筆頭とし、他、清水楼、竹澤楼、斎藤楼、柏木楼、新藤楼、東楼の名前が記載されている。

ちょっと横道にそれるが1907(明治40)年11月1日の「下野新聞」には面白い記事がある。

若い頃柏木楼に養子となり女郎屋の亭主になった高橋元四郎という方がいる。

この方は後に国会議員になるのだが、県会議員になった時、貸座敷を奥さんに譲ろうとし「貸座敷営業相続願」という類のない願書を県庁に出したところ「貸座敷の営業に相続権なるものを適用するに非ず」と突っ返されてしまった。そこでいったん廃業し改めて奥さんが営業を願い出て許可されてホッと胸を撫で下ろしたという。この当時もさすがに風俗店主が議員というのはまずかったのだろうか。そしていったん廃業してまた奥さんが営業願を出せばいいよ、というユルさも当時の雰囲気が伝わってくる。

鹿沼
横道にそれたついでにもうひとつ、石橋町付近の例幣使街道から横道にそれると花街だったエリアに入る。

鹿沼

鹿沼

鹿沼
画像はそれぞれ当時からの料亭「喜楽」(閉業)、「梅月」、「鳥長」。検番もこのあたりにあった。梅月と鳥長の通りは「出世街道」と呼ばれ、一旗揚げてここで飲むのが憧れだったという。

「喜楽」の歪みながらも必死に残っている感、「梅月」の塀の穴から伸びている木や「かばやき」の看板がとてもいい味を出している。

遊郭はその直後1908(明治41年)に出来た。街中に堂々と妓楼があるのは風紀上よくないということで、現在の下田町2丁目に遊郭を建設し、上記の妓楼の内齋藤楼、東楼を除く5軒が移転したことから「五軒町遊郭」と呼ばれた。はじめは奈佐原からも1軒加わる予定だったので、実現していれば六軒町になっていたかも知れなかったという。


場所はこのあたり。

ちなみに奈佐原は鹿沼からほど近い宿場町。鹿沼と同様に飯盛旅籠由来の貸座敷があったが、最終的には遊郭指定場所からは除外され消滅している。

鹿沼
これが遊郭の見取り図。(「かぬま郷土史散歩」柳田芳男著より)

鹿沼
こちらは松井天山による鳥瞰図「栃木県都賀郡鹿沼町実景」に描かれている大正時代の五軒町遊郭。

遊郭が一番栄えたのは大正時代の関東大震災前だと言われている。お盆になると遊郭中央の広場に櫓を建て盆踊り大会が行われた。近隣から多数の人が訪れ、藝妓や娼妓達も入り乱れて踊り狂い大盛り上がりだったという。踊りが終わると遊郭の東縁にある木島用水の川止めをして魚を捕っていた。木島用水は今でも残っている。ちなみに自分が訪ねた時は全く水がなく干上がっていた。

やがて昭和の世になると緊縮の時代となり、日中戦争が始まるとメインの客層であった若い男性達は徴兵され、「贅沢は敵だ」という風潮になり遊郭は寂れていった。遂に終戦1年前の1944年(昭和19)年、日本医療団県支部が遊郭総坪700坪を27万円で買い取り、病室及び医師・職員・看護師の宿舎を併設した診療所になってしまい、遊郭としての幕を閉じた。

遊郭がなくなってからは大門があった通りが東に延びて郭を南北に分断する形になり、また、通りも広がり面影はほとんど残っていない。参考文献によると大門は道路改修で移動し、下田町1丁目の某運送会社の門柱となっている、と記されていたが現在当該場所にその運送会社はなかった。

鹿沼
わずかな面影を残すものその1。この建物は現在はゲストハウスになっているが、かつては「竹澤旅館」(閉業)であった。5軒の妓楼のうちの「竹澤楼」が旅館に転業したものである。もちろん見た通り遊郭時代の建物ではない。

一方、明治時代の竹澤楼の電話番号は「62」だった。そして竹澤旅館の電話番号は「0289-62-2062」で、下2桁が一致する。これはずっと受け継がれてきた電話番号の名残りではないだろうか。

鹿沼
面影その2。ゲストハウス付近の電柱を見ると「新地」と書かれているものが何本か残っている。「新地」とは新しく切り開らかれたエリアのことで、新たに作られた遊郭と同義語である。これらの電柱がある区域がほぼ遊郭のエリアだったと見て良いだろう。

鹿沼
面影その3。見取り図にも出ている「椿森稲荷」。1867(慶応3)年中田町の菊地平内さんという方のお屋敷に創建され、1909(明治42)年に遊郭内に遷座。戦後、旧竹澤旅館から程近い小林医院の横に移されている。ちゃんと椿の花が咲いているのがエモい。

鹿沼
敷地の奥に遷座記念碑がある。裏面を読むと「金20円 各楼内働一同」と記載されており5軒の妓楼の名残りを見ることが出来る。また、「灯籠 検番」「手洗石 藝妓」なども刻まれていて、花街の名残りもあった。残念ながら検番が献じた灯籠や芸者さん達が献じた手洗石は残っていなかった。

鹿沼
面影その4。五軒町遊郭の近くにあった「冨士川」。1908(明治41)年創業の老舗蕎麦屋さんで、

鹿沼
さきほどの鳥瞰図にも遊郭のそばに描かれている。

「冨士川」はもともと古物商だったが、遊郭が出来てからは旦那衆に蕎麦の出前を始めたところ評判となり蕎麦屋が本業になっていったという。

鹿沼
ここで鹿沼ご当地グルメ「ニラ蕎麦」を食べた。ニラがみずみずしく、香りが豊かで美味しくて満足。

鹿沼
遊郭跡地を離れしばし散策。時折目につく古い建物たち。これは門がユニークで一部がバス停になっている元材木店。

鹿沼
鹿沼
掲示されたままの昔の商工案内図。地元の人ならこれを眺めながらかつての街並み、風景を思い起こせるのだろう。「あなたとの出逢い ブティック&コーヒ マシュポン」に行ってみたい。

鹿沼
向い側にあったお寿司屋さん。今もやってるのだろうか。

鹿沼
開化丼食べたい。

鹿沼
あまや食堂。

鹿沼
喫茶店。

鹿沼
例幣使街道沿いの立派な旧家。

鹿沼
これは遊郭エリア内にあった建物。ちょっと古い建物を見ただけで妓楼かと思ってしまう。

鹿沼
みごとにシャッターだらけの「銀座通り」。日曜日だったので定休日のお店が多かったのだろうが、空き店舗も目立つ。

鹿沼
「武器屋」って感じのお店。カッコイイ。

鹿沼
あまりヤングな感じがしない鹿沼ヤングボウル。

鹿沼
例幣使街道を北上すると「千手山公園」がある。アーチがイカス。

鹿沼

鹿沼

ここは小さな観覧車やミニ機関車などがあるこぢんまりとした遊園地で、乗り賃なんと1回50円。

鹿沼
観覧車から鹿沼の街を見降ろす。桜がちょうどいい感じ。

鹿沼
アーチに見送られて千手山公園を後にする。

鹿沼
「川上澄生美術館」。川上澄生は旧宇都宮中学(現宇都宮高)や宇都宮女子高で教鞭を執っていた栃木県にゆかりのある版画家。代表作「初夏の風」は、棟方志功に版画の道へ進む決意をさせるきっかけとなったという。

この美術館は川上澄生の教え子であり地元の豪商であった長谷川勝三郎が収集した作品約2千点が収蔵されている。

鹿沼

鹿沼
ここで「風景の川上澄生」という図録を買う。宇都宮遊郭(新地)の作品が3点掲載されているのだ。塔のようなものが描かれているが

宇都宮遊郭
これは時計台が有名だった「小松楼」という妓楼である。

本当は実物を見たかったのだが、いつも展示されている作品ではないので残念だった。図録を買ったら展示会のポスターを貰ってしまった。

僕は栃木県出身であるが、鹿沼には全く用がなかったので一度も訪れたことがなかった。しかしこうして鹿沼のことを調べてみると行きたいところ、見たいもの、確かめたいものが沢山出て来る魅力的な街であった。

また、市全体も自分たちの歴史を大切に守り、消えないように努力している姿勢が感じられるような雰囲気だった。

参考文献

「かぬま郷土史散歩」柳田芳男
「鹿沼市史」鹿沼市

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2020-02-23(Sun)

栃木県塩原温泉の名物女装有名人「おいらん清ちゃん」

昭和の初め頃、栃木県の塩原温泉にちょっと変わった有名人がいた。

おいらん清ちゃん
彼はいつも女装しており、「女髪結」(≒美容師)として女性の髪を結ったり、また、芸者としてお座敷に上ったりしていた。現代風に言うとカリスマ美容師兼オカマタレントみたいな感じだろうか。

【見出し】

1.塩原温泉の女髪結「おいらん清ちゃん」
2.清ちゃんの少年時代
3.清ちゃんの上京、師匠との出会い
4.清ちゃんの髪結修行、そして独立
5.遊芸人の清ちゃん
6.清ちゃんの恋愛
7.清ちゃんと軍隊
(1)最初の召集
(2)2度目の召集
(1)3度目の召集
8.清ちゃんの最期

1.塩原温泉の女髪結「おいらん清ちゃん」



本名を八木澤清吉(やぎさわせいきち)という。栃木県塩原温泉生れ。横浜で女髪結の修行を積んだ後地元塩原温泉で開業。その後芸者としても活躍。人呼んで

「おいらん清ちゃん」

清ちゃん自身は自分のことを「清子」と言う。清ちゃんに「八木澤君」などと呼んでは返事をしてくれない。「八木澤さん」でもいけない。「清ちゃん」「清子ちゃん」「お清さん」または「お師匠さん」と呼べばニッコリと振り返って、

「ナアーニ?」

と首をかしげて上目遣いで返事をしてくれる。

「女髪結」は当時は殆どが女性だったが清ちゃんの技術は優秀だった。何しろ男の力だから髷がよく締まり、とある当時の人気映画女優は塩原に来る時は必ず清ちゃんに髪を結ってもらっていた。繁昌してたようで、塩原温泉に一軒家を借り、数人の梳き子(髪結の助手)を雇っていた。

清ちゃんは自前の長髪を日本髪に結い、濃い化粧をし、すっぴんの顔は梳き子達にも見せたことがない。しかし白粉をべったり塗っていても髭が濃いので剃り跡が隠せないことが悩みの種。身長は五尺五寸(170センチ弱)、手足はゴツゴツして大きく、体格は良かった。

「女だってこれ程の器量良しは少ない」というベタ褒めのものから「瓜実顔で愛嬌に富んでいる」「ちょっとすごみのある美人」「女にない美しさがないでもない」というオブラートに包んだもの、「悪い意味で女形的、女形といっても名優には勿論及びもつかない」「はっきり言えばグロ」などとストレートなものまである。

髪結以外にも女性の仕事が好きな清ちゃんは女装の芸者として宴会に呼ばれ重宝がられた。

髪結の確かな技術で信用を、生まれつきの愛嬌のあるキャラで人気を得た清ちゃんは、芸能人でもないのに地元栃木県の新聞である「下野新聞」にちょくちょく記事や写真が載ったり、東京の読売新聞や東京朝日新聞などの記者がインタビューをしに訪れる程の有名人になった。

しかし今となっては清ちゃんについてのまとまった資料は殆どない。なので当時の新聞・雑誌記事や戦後書かれたエッセイなどを手掛かりにし、清ちゃんの生い立ちを探り、まとめてみた。

2.清ちゃんの少年時代


清ちゃんは1900(明治33)年頃、塩原の農家に生まれた。8人兄弟の長男だった。

幼少の頃から女性の髪の毛に異常に興味を持っていたようで、小学校では同級生の女の子の髪をいじり、お下げを結ってやったりしていた。本人曰く

「女の髪の毛を手に触れていると何ともいえない佳い気持ちなのよ」

「まあ、変態なんでございましょうねえ」

小学校時代から「おとこおんな」とあだ名を付けられていたという。

実家は貧乏だったので11才の時に八百屋の小僧に出された。それでも女性の髪が好きであることは変らず、暇さえあれば近所の子供やおかみさんの髪をなぜつけてやったり結ってやったりしていた。

また、女性の髪のみならず話し方、帯のしめ方、女性らしさの全てに対しての憧れが強くなっていった。

17の時、八百屋を辞め酢酸会社の職工となったがそこでも女性の髪が好きで同じ会社の女工達の髪を借りては髪結の練習をしており、やがて髪結として身を立てようと決心をした。

しかし世間は厳しく、清ちゃんはあらゆるツテを辿って髪結の師匠を探したが、男と知れた途端ことごとく断られてしまう。そのうち酢酸会社が営業を休止し、清ちゃんも辞めざるを得なくなる。この時既に19才になっていた。

3.清ちゃんの上京、師匠との出会い


職工を辞めた清ちゃんは、東京に出て髪結の師匠を探そうと決心する。ちょうど友人の1人が上京することを知り、頼み込んで同行させてもらった。

初めての東京に目を丸くした清ちゃんだったが、横浜に父の知り合いがいることを思い出し、横浜に向った。しかしその知り合いは転居しており会えず、自力で師匠を探すこととしたが、やはり横浜でも断られ続け、金も無くなってきた。

街角の貼り紙にあった人夫募集を見て赴いたところ採用されたが余りの仕事の激務さに半日で逃げ出した。やがて人造肥料会社の職工となり、下宿から通った。しかし髪結への夢は持ったままだった。

ある日下宿先の奥さんの髪を借りて丸髷を結ったところ、驚くほどの出来の良さに奥さんが感心し、こんないい腕なのに何故職工をやっているのか、と聞かれたので、これまでの事情を語ったところ、奥さんは心から同情してくれた。

そして奥さんの斡旋で遂に横浜市羽衣町2丁目の神奈川高等美髪学校校長・齋藤わか子氏という立派な師匠に付くことが出来た。清ちゃんはこの時ほど嬉しかったことはない、と後々まで語った。

(※清ちゃんが最初に働いた八百屋は横浜にあったという説もある。清ちゃんの姉が嫁いだ先だったツテで小僧に出されたという。八百屋の隣に髪結があり、八百屋の仕事そっちのけで髪結に入り浸り、その縁で弟子入りした、とも。この説によれば清ちゃんは11才で横浜に行き、17才で師匠に付いたことになる)

4.清ちゃんの髪結修行、そして独立


おいらん清ちゃん
清ちゃんは念願の師匠の元で職工を続けながら毎日一所懸命修行に励んだ。1日働いて疲れた身体も忘れ、上達していった。だんだんと女性の着物を身に着けるようになってきたのもこの頃らしい。

しかしこの頃は徴兵制度があったので清ちゃんも召集されてしまう。徴兵検査で甲種合格し、宇都宮歩兵第59連隊に入営する。軍隊と清ちゃんについては別途述べたい。

幸い1年で帰休除隊となり再び師匠の元へ戻った。やがて師匠の信用を得、ついに長者町に店を出すことが出来た。1923(大正12)年頃のことだろう。長者町のほど近くには花街があり、良いロケーションだったのではないだろうか。

ところがその8か月後に関東大震災が横浜を直撃。清ちゃんは辛うじて助かったが店を失った。清ちゃんはもう一度師匠の世話になることを決意、師匠も快く迎えてくれた。師匠の暖かい心に感激した清ちゃんはより一層精を出して働いた。

師匠は清ちゃんの今後を考え、いっそのこと塩原に帰り、故郷で店を出す事を勧めた。当時の塩原温泉は政治家や文化人、著名人も訪れる有名な観光地であり、芸者もたくさんいた。清ちゃんは師匠に感謝しつつ帰郷、立派な一人前の髪結として店を出し、故郷に錦を飾ったのであった。

清ちゃんの女髪結のルーツは「女性の髪への異常な興味」であり、女装を好むのも女性のしぐさ、装い等の女性への憧れであった。下宿先の奥さんが斡旋してくれたのも、良い師匠に出会えたのも、清ちゃんの髪結への一途な姿勢と絶え間ない努力によるものだったろう。

5.遊芸人の清ちゃん


おいらん清ちゃん
清ちゃんは余程女性の仕事が好きなのだろうか。髪結となってからも生け花、茶の湯、琴、三味線、舞踊なども習得し、正式に届出の手続きをして遊芸人の鑑札を得た。好きなこともあるし元々何事にも器用なのかもしれない。鑑札というのは芸者としての登録のことで、モグリではダメなのである。

その時のことが1931(昭和6)年の「下野新聞」に記載されている。以下はその要約。

取材に来た記者に対し、とあるお座敷に呼ばれて出掛けようとしていた清ちゃんは足を止め、

「私、鑑札なんか受けるのは嫌なんだけど警察の方でも中々やかましいんだものしょうがないわ…」

などと愛嬌たっぷりに話し、

「お客さんが待ってるでしょうから失礼しますわ」

と馬車に乗ろうとする清ちゃんに記者がカメラを向けたところ

「いやよー」

と言いながらも真面目な顔で立ち止まってくれた…

以上のようなことが書かれ、そのキメ顔とキメポーズを取った写真も載せられている。清ちゃんもノリノリだし記者もウキウキしながら書いている感じがする。

お座敷での清ちゃんの身なりや仕草はまるっきり女性であったという。ただし着物から覗く手足や首は太くて毛深かった。声はえらく女性っぽいが、調子に乗ってくると馬鹿に野太い男の声を出す一面もあった。

根っからの愛嬌者ということもあり人気者となり、政治家や要人にもたびたび呼ばれ、特に国家主義の大物、頭山満は塩原温泉での療養中に清ちゃんを気に入り毎夜のように晩酌のお供に呼んでいた。清ちゃんも

「話に聞くより好いおじいさんだわ」

と三味線や踊りを披露し大喜びだったという。

6.清ちゃんの恋愛


おいらん清ちゃん
清ちゃんには奥さんもしくは旦那さん的な存在はいなかったようだ。しかし恋愛関係になった人はいた。あまり詳細は分からないが少なくともふたり。

ひとりめは意外にも女性。1926または1927年、清ちゃんが塩原に戻って来て髪結を始めてからまだ年浅い頃だろうか。

塩原の料理店の女中で、通称「切られお辰」と呼ばれていた女性で、咽喉のところにすごい切り傷のある男のような女だったという。女性とはいえ男っぽいところに惹かれたのだろうか。

ふたりめは東京の大学生。塩原に来るたびに清ちゃんを呼んで遊んでいたところ別れかねる仲となり、手紙のやりとりも激しく、人目にさえ怪しまれる程になったという。

清ちゃんは稼いだお金のある限りこの学生と逢引したといい、町の人達も心配する程になっていたところ軍隊への召集(2回目:後述)がかかり、そこで関係は終わってしまったと思われる。

「清さんはどんな男が好きだい」

という新聞記者からの質問には

「わたしはこんな人間だけれど、にやけた男は大きらい、強そうな男が好きだわ」

と答えている。

7.清ちゃんと軍隊


(1)最初の召集


おいらん清ちゃんとはいえ、戸籍と体は男性なので徴兵からは逃れられない。彼は何度も軍隊から召集されている。

最初の徴兵があったのは清ちゃんが20才前後、1920(大正9)年頃ではないだろうか。横浜で髪結の師匠に付いて修行を始めた後であることは確かだ。身長五尺五寸(170センチ弱)、体格の立派な清ちゃんは甲種合格し、宇都宮歩兵第59連隊に入営、「八木澤清吉一等兵」となった。

在営中は、女らしい身ごなしのために隊長からひどくいじめられ同僚からも爪はじきにされたとも、練兵その他一切を大目に見られた代わりに将校の自宅を回って夫人の髪ばかりを結っていたとも言われている。在営1年にして帰休除隊となった。その時の嬉しかったこと嬉しかったこと、と本人は語っている。

大目に見られたとしてもそこは軍隊、それなりに鍛えられたようだ。1930年の「東京朝日新聞」の記事によると、清ちゃんに会いに来た新聞記者がお座敷でついぼんやりしていると

「あら、こちら、おすましね」

とトンと背中を叩かれたところ、清ちゃんは軽く叩いたつもりだろうが兵隊上がりの男の力だから馬鹿に痛い、と書いている。記者が苦笑いして尻込みし出すと

「おやおや、随分ね、よくってよ」

と言いながら今度はつねろうとしたという。

1度目の軍隊から戻ってしばらく、この1年のことはあまり話したくなかったらしい。1929年の「読売新聞」によるインタビューでは、

「そうだ、清さんは軍隊へ行ったんだそうだね」

と聞くと

「軍隊の話はよして頂戴な」

と言われてしまった。なので記者は聞き方をこう変えて話を続けた。

「じゃあ、女学校としよう、清さんはどこの女学校へ入ったの」

「宇都宮歩兵第59連隊」

「ホウ、これはいかめしい」

このやりとり、軍隊の話はよして頂戴とスネて記者に「女学校」と言い直させておきながら「宇都宮歩兵第59連隊」と素直に答えているのが清ちゃんの人の良さというか愛嬌が出ていて面白い。

簡閲点呼(予備役である在郷の兵を定期的に集め教育する)についても、お座敷で馴染みのお客さんが

「清ちゃん、今年は点呼だろう」

と聞いたところ、清ちゃんはたちまち膨れ上がってしまい、返事もしないで三味線をジャンジャンと鳴らし出したというから、この当時の清ちゃんにとっては余程タブーだったのだろう。

(2)2度目の召集


2度目の入営は1932(昭和7年)。わざわざ「下野新聞」の記事になった。普段の女装姿、および化粧を落とし坊主頭になった姿の写真が掲載されている。女性より美しいのではと言われた長髪を切った時、清ちゃんは涙を流した。誰よりも髪が好きな清ちゃんのその辛さ、悲しさは想像を絶するものだったろう。

清ちゃんは別れに臨み、敬礼をした後に「あら、恥ずかしいわ」と言ったという。

結局この時は戦地に行くことはなく、留守役の後備歩兵としてすぐ戻ることが出来た。入営直後にこんなエピソードも残されている。

とある宇都宮憲兵分隊長が塩原温泉視察を終え、旅館で温泉に浸かり、晩酌もしていい気分になった。芸者も呼びたいどころだが職務柄流石にそうもいかず、考えた末に思い付いたのが塩原名物清ちゃん。早速電話をかけたところ前日帰郷したばかりだという清ちゃんは、分隊長の呼び出しにスワ何事かとすっ飛んで行き、

「後備歩兵一等兵八木澤清吉参りました」

ビシッと挨拶をした。分隊長は

「何日帰郷したか」

と聞けば

「ハッ昨日帰ったのであります」

これまたビシッと返事をしたので

「まあ、そう、固くならないでも良い、ゆっくり飲みながら語ろうよ」

と言う分隊長に清ちゃんは初めて「八木澤清吉一等兵」ではなく「おいらん清ちゃん」をお呼びだったのだ、と安堵の胸を撫で下ろすと、襟をすかして

「まあ何事かと思って驚いたわ、ぢゃあお酌をさして戴きますわ」

コロッと柔らかくなったので流石の分隊長も二の句が出なかったという。

軍隊から戻ってからは頭に束髪のカツラをかけ、厚化粧して元の如くお座敷でお勤めするようになったが、軍隊の鍛錬が行き届いたようで、以来、行儀の悪い人が戯れ言など言うと涼しい目をキッと見すえて、

「冗談を仰っちゃいけません、こう見えても国家の干城(「干」は盾の意。国を護る軍人のこと)です」

とたしなめるようになったそうだ。

本意かどうかは不明だが、清ちゃんが軍隊に入営するたびに、兵士としての誇りのようなものが見えて来るるのが興味深い。身なりも仕草も職業も女性的なものを追求しているのに、兵役という男性的な義務も併せてきちんと果たそうとしている。これが清ちゃんの誇りなのか、それとも逃げたくても逃げようがなかった当時の厳しさなのか。

それでもこの当時は満州事変直後の緊迫した情勢とはいえ、まだ呑気な雰囲気が残っているような気がする。

(3)3度目の召集


盧溝橋事件により日中間の戦争が激化して間もない1937(昭和12)年9月、清ちゃんはまたも召集を受けた。今回は留守隊ではなく戦闘の最前線、中国北部である。

清ちゃんは余程覚悟をしたのか、前回の時は涙を流して切った黒髪を、召集令状を受け取ったその日の内に一分狩りにしてしまった。その姿を見て

「あらお師匠さんが…」

と戸惑う梳き子や馴染の藝者さんを睨み、

「そんな事言わないで頂戴!もう今日から立派な国家の干城だわよ。今度はどんな事があったって留守なんかしやあしないわ!○。○○○(中国人に対する蔑称)連中を一蹴散らしにしてみんなをアッと言わしてやるから見ていてネ」

と気焔を吐いたという。前回の出征の際は見送りの人達には敬礼しつつも

「アラ恥ずかしいわ」

と照れたものだが今回は違う。正確な直立不動の姿勢を取り、敬礼をして

「軍人の本分を尽しに参ります」

と言ったため、見送る人達は声を合せて

「八木澤清吉君。万歳!」

を三唱した。

現地に着任した清ちゃんは、軍隊での生活の様子を手紙に書いて知人に送っており、そのいくつが「下野新聞」に掲載されている。清ちゃんは現地でも有名人だったようで

「私は知ってる人が多いので塩原のカーチャンカーチャンと言われていやになっちまいますよ」

とこぼしている。清ちゃんはこの時おそらく40才手前ぐらいであり、召集される年齢の上限に近い。若くして召集された兵達からすると姐さんというより「カーチャン」なのだろう。

「戦闘のない時はまるで子供の様に食べる事ばかり考えてのんきなものです」

ということだが、凄まじい戦闘の様子を何度も書いて送っている。

駅を守っていたところ敵の急襲を受け銃撃戦となったが補給手段がなく弾が残り3発となり、

「捕虜になるくらいなら自決せよ」

という母の言葉を思い出し死を覚悟したこと、間一髪装甲列車がやって来て敵を追い払ってくれて助かったこと、

見張りをしていた際、敵の斥候をいち早く見付け銃を撃ちまくり撃退し隊長に褒められたこと、など、戦場の最前線でいつ死んでもおかしくないような話ばかりであった。

おいらん清ちゃん
中国北部での清ちゃん。すっかり男。素顔はイケメンっぽい。小学生から送られて来た慰問袋に入っていた手紙に涙を流し、恩賜の煙草にも涙を流し、軍人として役に立てたことを喜んでいる。

また、作家・長谷川伸氏への手紙には

「万一、凱旋ができたら、女にはもうなりません」

「男の生活も楽しいものです」

と書いている。本心なのかどうかは分からないが、あれだけ女性に憧れて、軍隊の話などしたくなかった清ちゃんは、死闘を通じて変っていった。

8.清ちゃんの最期


3度目の召集から先の清ちゃんの様子ははっきりと分かっていない。ただ、残念ながら戦死したことは明らかである。

1956年発行の「のぞき眼鏡 : 随筆」によると、著者・田辺貞之助氏が1955年に塩原温泉の旅館を訪れた時、清ちゃんについて聞いたところ、

『そこの隠居さんらしいお婆さんが、「あの人は日支事変かなにかのときに戦死した」と教えてくれた』

という。

情報収集の頼みの綱はちょくちょく清ちゃんの記事を載せていた「下野新聞」なのだが、1938(昭和13)年3月、清ちゃんが中国の要人に揮毫して貰った書を塩原温泉のとある旅館に送った、という内容の記事以降、彼の記事を見つけることは出来なかった。

もし清ちゃんが戦死となれば、勿論そのことも記事になっているに違いないと思い戦時中の「下野新聞」を探してみたが、日中戦争が激しくなるにつれ戦争関連や戦没者の記事が多くなったので三面記事が減り、太平洋戦争が始まってからは物資が乏しくなったのか紙面が僅か2面に減り、更には1945(昭和20)年7月の宇都宮空襲により下野新聞社が被災したため7月から9月まで新聞が発行されていないという、清ちゃんどころではない状況であった。

戦没者の記事もチェックして清ちゃんの名前がないか確認したが、終戦の数ヶ月前から情報統制のためなのか戦没者の記事自体が全くなくなってしまった。

ようやく見付けたのは終戦後1945(昭和20)年10月の「下野新聞」。戦没者遺族に対しての「遺骨をお渡しします 海軍関係」という記事だった。そこに記載されている戦没者名簿の中に

「軍属 八木沢清吉 塩原」

とあった。同名だけでなく、塩原という地名も一致しているので清ちゃんで間違いないだろう。清ちゃんは最期は海軍に所属していたのだった。「軍属」とは直接戦闘に関わることのない事務方などの人達のこと。海軍の軍属の職業には理髪師もある。

これは想像だが、中国北部戦線での任期を終え帰って来た清ちゃんは先述のとおり、もう女装はしなかったのかもしれない。

戦時中はあらゆる贅沢・娯楽が制限され、芸者遊びのようなことも自粛して当然の風潮であり、清ちゃんも最早芸者として、そして芸者相手の髪結として活躍する場がなくなっていたのではないだろうか。

そのため女性ではなくて男性の髪ではあるが、これまでのスキルを活かし、理髪師として志願し(もしくは徴用され?)軍艦に乗込んで行ったのではないだろうか。そして海上のどこかで戦死した…。

太平洋戦争が激しくなる前まで「下野新聞」は、清ちゃんが要人のお気に入りになったとか、軍隊に召集を受けたとか、戦場からすさまじい内容の手紙を送って来たとか、いちいち何かあるたびに記事にするほどの清ちゃん好きだったのに、終戦後、英霊となってしまった清ちゃんには何一つ声をかけていない。いくら紙面が僅か2面に制限されていたとはいえ、悲し過ぎるではないか。

女髪結・芸者として技を磨いて女性らしく生き、軍人として男性らしくも生きた清ちゃん。真面目で器用でストイック、それでいて愛嬌があり本当に立派な人物だった。

心からご冥福を祈りたい。

【参考文献】

・下野新聞 1929(昭和4)年8月31日
      1931(昭和6)年4月8日
      1932(昭和7)年3月20日
      1932(昭和7)年3月25日
      1934(昭和9)年5月27日
      1937(昭和12)年9月18日
      1937(昭和12)年12月26日
      1938(昭和13)年2月5日
      1938(昭和13)年3月25日
      1945(昭和20)年10月15日

・読売新聞 1929(昭和4)年1月1日
      1932(昭和7)年9月23日
      1932(昭和7)年9月25日

・東京朝日新聞 1930(昭和5)年7月16日
        1938(昭和13)年1月15日

・「旅」/日本旅行協会 1934(昭和9)年4月号
・絵葉書「塩原名物女装 おいらん清ちゃん」/著者不明 1938(昭和13)年
・「のぞき眼鏡 : 随筆」/ 田辺貞之助 1956(昭和31)年 

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2019-08-04(Sun)

水戸黄門もビックリなエロい岩「御前岩」と栃木県那珂川町馬頭探訪

女陰(ほと)にそっくりな岩があるというので行ってみた。

ちなみに「女陰(ほと)」とは女性の大切な部分を指す言葉である。いきなり下ネタかよと思う方もいるかもしれないがわりとまじめな旅レポなので読んでいただけたら幸いである。

栃木県の東方、茨城県との県境に近い那珂川町。旧馬頭町の市街を武茂川(むもがわ)沿いに北上していくとやがて辿り着く。

御前岩

御前岩

御前岩
これがその「御前岩」(ごぜんいわ)。これはまさに女陰(ほと)。画像ではあまり伝わらないかもしれないが、実際に見た時の「くぱあ」感やビラビラ感は凄かった。これが天然岩というから驚きである。

御前岩
案内看板を読んでみると「サイマラ」「オンマラ」「男根」「性研究所」等のパワーワードで溢れていた。近隣の男根岩とセットで信仰されていたことが分かる。

1692年(元禄五年)、徳川光圀(水戸黄門)が領内見分の折、御前岩を見て

「これは誠に天下の奇岩じゃ」

と驚き、

「かかるものを衆目にさらすことは、よろしからず」

と土地の役人に命じて御前岩の対岸に竹を植えさせたところ、これがやがて竹藪となりますます好事家の目を楽しませたという。

御前岩
これが御前岩の対岸側に植えられている腰巻竹。街道からは直接見えないように遮られている。

御前岩
言い伝えによると昔は御前岩様のくぱあ部分から霊水が流れていて、その水は月に一度紅色を帯びたので女神が宿るものとされていた。月経だろうか。

この場所から程近い那珂川町大字大内久通地区の「サイマラ淵」には、巨大な男根石「オンマラ様」があり、御前岩とオンマラ様は深い仲であった。

しかし明治の末期に大洪水によりオンマラ様は崩れてサイマラ淵へ沈んでしまった。それを知った御前岩は悲しみのあまり、霊水の変化は見られなくなったという。閉経だろうか。

御前岩
別の案内看板には「もう一つの御前岩物語」が紹介されていた。御前岩を人格化、神格化した「岩姫様」とオンマラ様のそれ「サイマラ様」との悲哀の物語。

ふたりは大変仲睦まじかったが、サイマラ様が大洪水により飲み込まれてしまう。しかし子供を授かっていた岩姫様はサイマラ様との間の子を産む。サイマラ様は鯉の化身となり今でも岩姫様を守り続けていて、岩姫様にお参りすると子宝に恵まれるという。

御前岩

御前岩
御前岩の頂上には小さな祠があるとのことなので行ってみる。「大変な場所にあるため必ず二人でお参りすること、サンダルやヒールでは、お参りに行かないでください」と書かれている。ひとりだしサンダルだがまあよい。

御前岩
御前岩の少し上流にかかっている橋を渡り御前岩側へ。渡るとすぐ右側に御前岩に登る細い草ボーボーの道がある。昨日雨が降ったせいでそのへんから溢れてくる水がジャバジャバ流れて来ているが、崩れ落ちる寸前の申し訳程度の粗末な階段を頼りに進んで行く。

御前岩
たくさんのハグロトンボがひらひらと飛んでいた。ハグロ=羽黒=お歯黒=既婚女性ということで岩姫様の化身だろうか。また、ハグロトンボは神様の使いとも言われており縁起が良い。

御前岩
登り切ったところにある鳥居をくぐって振り返るとアラわりと良い景色。道は鬱蒼とした樹木の中へと突っ込んで行く。さきほど御前岩を覆うように繁っていた木々である。陰毛とか言わない。

御前岩

御前岩
やがて辿り着いた祠がこちら。御前岩の真上。恥丘にあたる部分と言えなくもない。中には男根のオブジェや女陰の形をした陶器などが納められていた。祠の中から覗く怖い顔のこけしも男根の形に寄せているような気がする。

御前岩
御前岩のすぐそばには「御前岩物産センター」がある。けっこうキレイ。そば打ち体験が出来たり、那珂川町で養殖されている名物の温泉トラフグやホンモロコ、現地で捕れるイノシシ肉「八溝(やみぞ)ししまる」を使った料理、手打ちそば等、地元で力を入れている料理が食べられる。

御前岩

御前岩

御前岩
お土産も地元の名産品や子宝祈願系のグッズが充実している。メシにはまだ早かったので食事はしなかったが

御前岩
「御前岩ごりやくまんじゅう」を買った。

御前岩
まんじゅうには2種類あり、

御前岩
すなわち御前岩様とオンマラ様である。御前岩様の黒ゴマとか内部のテカりなど細部へのこだわりが感じられる。中は細かいクルミが入った白あんで意外とおいしい。子作りの前後に食すとよい感じである。合体させてみようかとも思ったが自分がいい年したおっさんであることを思い出し辛うじて思い留まった。

このような男根とか女陰とかを崇め奉る信仰は日本以外にもあり、もちろん「ギャハハち○こー!ま○こー!」みたいな小学生でも分かる面白さのツカミはあるが、ちんまんを生命力そのものの象徴として、子供を授かりたい人、健康でいたい人などの信仰心を集めたのだと思う。

御前岩

御前岩

御前岩

御前岩

御前岩

御前岩を後にして馬頭の市街地に戻った。古い建物がよく残っており、昔の商店街の雰囲気が漂う。何気に電線が地下化されていたりしていて、懐かしい感じなのにどこかこざっぱりしているのはそのせいだろう。

しかしこの日は梅雨明け直後の猛烈な陽射しと暑さが容赦なく襲いかかり、ちょっと歩いただけで汗だくになり、すぐ手持ちの飲み物がカラになってしまうので、飲み物補充とちょっと涼ませてもらおうと、とある食料品店に入った。昭和からそのまんまな感じの店内にはレジカウンターにおばあさんがひとり。大胆というかだらしない胸元から覗く胸の谷間。目のやり場に困り勘弁してほしい。奥には食料品棚に囲まれるようにおじいさんが座っていて

「おーい、お客さんだぞー。お客さんが来たらなんて言うんだっけー?」

と家の中に声をかけた。すると

「いらっしゃいませー」

奥から3才くらいの男の子が三輪車をキコキコこぎながらやってきた。お孫さんか。超カワイイ。麦茶を取ってレジに行くと男の子もキコキコ付いてくる。レジのおばあさんは

「なんの写真撮りに来たんです?」

僕が肩から下げてたカメラを見て言った。この街並みがいいので撮ってるんですよと答えたが、おばあさんと男の子の顔がそっくりでニヤついてしまう。

「どこから来たんですか?」

「栃木(市)です」(本当は栃木出身の東京在住だが)

「あ、栃木け」

同県人だと分かった途端地元の言葉になった。おばあさんは

「いっぱい撮ってってね!」

と見送ってくれた。ドアを閉め切る直前に

「お客さんもう帰っちゃったー」

という男の子の声が聞こえた。ホントにカワイイ。

御前岩
腹が減って来たところ、この店の近くに「彼の女」という素敵な名前の食堂があったのでそこで昼飯を食べることにした。

店の中は街並みと同じような緩い時間の流れを感じる昭和な内装、ご年配のご夫婦が切り盛りしていて、カウンターには常連さんらしきお客さんが缶ビール片手に漬物をポリポリかじっていた。シブいですな。

さきほどの食料品店のおばあさんのグイグイ来るような接客とは違い、こちらの奥さんは

「こちらの席が涼しいですよ。お客さん暑そうですから…」

僕をエアコンそばの席に案内してくれる奥ゆかしい気配り。それ以外は基本的にあまりよそものをイジらないでいて下さる。

御前岩

メニューをしばし見る。手打ちラーメンが売りらしいがもっと腹にたまるものを食べたくてカツカレー。

ご主人さんが厨房で寡黙に調理。このクソ暑いのに揚げ物を頼んでしまって悪かったかな。

御前岩
これが「彼の女」のカツカレー。昔っぽい黄色いカレーでほんのりスパイシー。新潟名物のバスセンターのカレーに少し似ており美味しい。

カツカレーを僕に出した後のご夫婦はヒマそうだった。後から入ってくる客もなし。BGMもなし。ひたすら静かな店内。カツカレーを食べる音を出すのも恥ずかしいくらい。

「○○ちゃん、お盆休みはいつ?」

ご主人がボソッと常連のお客さんに声をかける。

「×日と△日と…今年は飛び石なのよねー。ほら、企業カレンダーだからさー…」

「そーかー」

会話の声だけが店内に響く。旦那さんがいったん外に出て様子を見て戻って来た。

「いやあ…暑い。こりゃ暑すぎ…」

空いてる客席に座ってる奥さんが微笑みながら見てる。旦那さんはフウと息を吐き

「息をしてるだけで暑いよ…」

奥さんはふふっと小さく笑い

「じゃあ息しなけりゃいいじゃない。ふふ…」

穏やかな声でからかう。

「静かだね…。もう12時過ぎてるのに」

ご主人もこういうツッコミには慣れてると見えて華麗にスルー。

「暑すぎてみんな外に出たくないんでしょう…」

奥さんがまた穏やかな声で返す。なんか昔の小津映画を観ているようだ。

カツカレーは何気に肉もたっぷりで意外にボリュームもありギリギリ完食でき、ごちそうさまと奥様に会計してもらって店を出た。

御前岩の岩姫様の祠にお参りするにはふたりでなきゃダメだと書いてあったので、これで「彼の女」連れということにして欲しい。なんちて。

馬頭市街は素敵な街であった。地元で養殖している「温泉とらふぐ」、地元の猪肉ブランド「八溝ししまる」などのおいしい食材を開発し、それらを調理して提供するお店がそこかしこに見られた。

「御前岩」も立派な観光資源であり、僕みたいに「御前岩」の女陰(ほと)を見たさに馬頭の街を訪れた観光客もいるわけで、そんな変態客はごく一部かもしれないが、馬頭の街にはなくてはならないものであろう。

すなわち街の女陰(ほと)ステーション。なんちて。

【参考文献】

「生きている民俗探訪栃木」尾島利雄 著
「那須野物語 : 原野の情念と回帰」榎本菊雄 著

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2018-03-01(Thu)

栃木県宇都宮市徳次郎遊郭跡地を歩き、「性神の館」を見学する。

栃木県宇都宮市の北部にある徳次郎(とくじら)。

奈良時代、日光に勢力を持っていた久次良(くじら)氏の一族がこの地に出て来て、本家と区別するために「外の久次良」→「外久次良」→「とくじら」となったという。

室町時代末期から江戸時代はじめごろまで刀鍛冶集団がこの地で作刀した刀剣が現存する。また、かつて大谷石に似た「徳次郎石」が採掘され、それを用いた蔵などが近隣に残っている。

江戸時代、日光街道が整備されてからは宿場町として発展し、亀屋・福島屋・松岡屋・米屋・和泉屋・亀沢屋・大黒屋などの飯盛り旅籠が出来、のちの遊郭のルーツとなる。

徳次郎遊郭(新地)がいつ出来たかは調べられなかったが、日光街道から少し東に外れたところに造られ、1956(昭和31)年の売春防止法の制定により消滅した。妓楼は富永楼・松岡楼(のちに逸富楼)・亀楼・斉藤楼の4軒があった。その跡地を訪ねてみた。


宇都宮の中心部から国道119号線(日光街道)を北に。車で30分くらいでバーミヤンがある徳次郎交差点。右折し国道293号線を東に進むとすぐ、道路の北側に遊郭があった。

徳次郎遊郭
「明日に伝えたい富屋の郷土誌」より

徳次郎遊郭
国土地理院サイトより空中写真。1948(昭和23)年。

徳次郎遊郭
同じく1961年(昭和36)年。

徳次郎遊郭
「大日本職業別明細図 宇都宮市 城山村 徳次郎 石橋町」(1929年:昭和4年)には「遊廓」と記されている(左側が北の方角)。

徳次郎遊郭
現在は園芸用土製造販売会社や食品問屋会社などの敷地になっていて、遊郭の面影は全くない。

徳次郎遊郭

徳次郎遊郭

徳次郎遊郭
遊郭の入口があったところには普通の民家が建っていた。

徳次郎遊郭
裏側から。

徳次郎遊郭
遊郭の東側から北に伸びる道、「大網道」を歩く。おっぱいのように見える山。遊郭内の妓楼の窓からも見えたのではないだろうか。

徳次郎遊郭
左のおっぱいあたりにある毘沙門山の毘沙門天神社。徳次郎遊郭に売り飛ばされて来た遊女により作られ、歌い継がれてきた「徳次郎節」の歌詞に毘沙門山があることから、何か遊郭と関係するものがあるかと思って来てみたが特に何も見当たらなかった。

徳次郎交差点に戻り、今度は西に行くと

性神の館
「性神の館」というビザールな博物館がある。

性神の館
入口からしてコレである。

性神の館
トゥナイト2の山本晋也監督は4時間もかけてじっくり見学したという。

性神の館は梅宮辰夫から邪悪さを抜いたようなルックスの館長さんとその奥さんのふたりで運営しており、

性神の館
受付で奥さんに入場料を払いチケットをもらうと、館長さんがつきっきりで館内を案内してくれる。その間、エロネタを交えた愉快な解説が途切れることはない。

性神の館

性神の館
まずは男根や女陰を祀った神社や道祖神・石神・お祭りなどの説明。モルゲッソヨ的なインパクトに圧倒されるが、性に関する(特に男根・女陰をオブジェ化した)信仰・風習・文化に関するものを中心に展示してあり、エロ目線というより民俗学的な観点のものが多い。だから秘宝館ではなくあくまでも博物館と名乗っているのであろう。

客の出身地を聞いて、あなたの県にはこんなお祭り(ちんこ型の神輿を担いだり、ちんこオブジェをこすったりする類)をがありますよ、ということも資料を見せながら教えてくれる。

世界の性の信仰についても様々な展示物と説明がある。館長さんはヒンドゥー教の寺院、カジュラホに行き、そこにびっしりと刻まれている様々な男女のまぐわい像(男女交合像:ミトゥナ)を撮りまくってきたのだという。

性神の館
これはフィリピンのチンコ・パイオツ系の工芸品。ウィークエンダーっぽいのがあったのでつい撮ってしまった。

更には大人のおもちゃの歴史や体位四十八手についても。体位解説の絵が壁に貼ってあり、館長さんがそのうちのひとつ、横から入れている系の体位を指して曰く、

「これなんかは来年、皇太子殿下が絶対やることですよ。側位(即位)」

とか

「今の天皇陛下にも大変関わりのあるテーマですね。体位(退位)」

オヤジギャグがキレキレであった。天皇陛下万歳的な人が聞いたらブチ切れるんじゃないだろうか。

驚くべきことはこれだけではなく、喜多川歌麿の浮世絵の原画が展示されていた。失礼だが本物なのだろうか…。

館長さんの怒涛のレクチャーで館内をひと回り。時間は20分ほどか。最後はソープランドの待合室のような、古ぼけたソファが並んだ部屋に通される。ここで10分ぐらいのビデオを鑑賞するという。真面目系のビデオと不真面目系のビデオの2択。真面目系は先程にも書いたインドの寺院のビデオだという。しかし僕はつい

「不真面目系で」

と言ってしまい、始まったビデオは

性神の館
「桃尻ナースの裏筋クリニック ナマで何度も注射して…」(五十嵐こずえ)

という出演者のルックスやファッションからバブル時代の匂いがプンプンするエロビデオであった。スマホで検索したら1992年物。どうりで。逆に古すぎて卑猥だったが、

「いやあん」

「ああーん」

という馬鹿でかいあえぎ声の中、大部屋でひとりポツンと観ているのは結構キツかった。男優、早くイってくれないかなあ…と早く時間が流れることを願った。せっかくだからここでしか観れない館長さんオリジナル作品の方がよかったと後悔。

ビデオが終わると自由行動である。館内を自由に見学でき、写真撮影もOK。出口の脇にはお土産コーナーがある。もちろん扱っているのはアダルトグッズ中心。中にはあやしい精力剤や媚薬みたいなものも。さながら大人のおもちゃ屋である。

館長の奥さんが

「コレ買った人がね、ロトシックスで50万円ぐらい当てたのよ!」

ウソかホントかしきりにすすめてくるお守りを購入した。

性神の館

性神の館
パッケージ。思い付いたフレーズを片っ端から書きまくったような文のとっ散らかりよう。

性神の館
開けてみる。

性神の館
さらに開けてみると…うん。もうこのカタチ、館内で散々見まくったので「もうええわ!」って感じになった。

帰り際に館長さんに

「この辺に遊郭があったと聞いたのですが」

と聞いてみたら

「そうですね!徳次郎遊郭といって、徳次郎というのは日光の…」

さすがにご存知で、冒頭に書いたような徳次郎の地名の由来を説明してくれ、あと

「バーミヤンのあたりがそうですよ」

場所もざっくりと教えてくれた。

内容が内容なだけに、アレな画像をたくさん載せてしまったが、

こんな卑猥なものを見せないで!とか

とくじら立てないで欲しい。なんちて

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2018-02-28(Wed)

栃木県日光市今市遊郭跡を歩く

栃木県日光市今市。

かつては栃木県今市市であったが、旧・日光市や近隣の町村と合併し、栃木県の1/4の面積を占める広大な新・日光市となった。結果、「市」としての今市は消滅し、現在は日光市の一部となっている。

「世界遺産」、「日光を見ずに結構と言うなかれ」等、栃木県よりもネームバリューがある日光に比べ、今市は日光街道において日光の手前の街であり、有名なモノはあまりない。強いて言えば

「イマイチだなー」

と言いたい時に

「日光の手前だなー」

というギャグが一番有名である。しかし魅力のない街はない。今市にはかつて遊郭があった。場所は現在の上今市駅のすぐそばにあった。


「朝日町新地」とも呼ばれていたらしい。

1907(明治40)年発行の「栃木県営業便覧」には「大出楼」「大出楼支店」「巴楼」「開盛楼」の4つの妓楼が記載されている。

今市遊郭
1922(大正11)年、松井天山による「栃木県今市町鳥瞰図」には「栄楼」「今市楼」が加わり6軒が描かれている。

1911(明治44)年ごろから1910年代前半(大正時代の始め)にかけて、東京への電力の供給のために設立された鬼怒川水力電気株式会社(ちなみに当時の小田急電鉄の親会社)によるダム建築工事があり、その前線基地となった今市は工事開始とともに異常な活気と好景気に覆われ、遊郭も繁昌したという。

また、1930(昭和5)年発行の「全国遊廓案内」には

「日光が近いのと鬼怒川温泉に近いので日光の遊覧客や、鬼怒川温泉の湯治客で可成今市は賑わっている」

と書かれている。

今市遊郭
現在は住宅や材木置き場になっており全く面影はない。普通の住宅地のわりには少し幅が広めに思える真ん中の道路が辛うじて遊郭の区画の名残りと言えるかもしれない。

今市遊郭
左手前にある元商店っぽい建物は、もちろん遊郭の時代からあったものではないが、気になって古い住宅地図を調べてみたら左から「斉藤菓子屋」「斉藤食料品屋」と記されていた。駄菓子屋さんとパン屋さん的なお店だったのかもしれない。

今市遊郭
画像右奥、電柱と建物の間に見えるのは栃木の名山・男体山。画像では分かり辛いが実際は結構「どーん」と雄大な姿で壮観である。妓楼の窓からの眺めも良かったのではないだろうか。

今市遊郭
遊郭エリアの端にお稲荷さんがあった。

他に遊郭跡に特筆すべきものはないので、今市市街を散策。

今市遊郭
レコードショップ。外観は30年ぐらい何も変わってなさそう。

今市遊郭
おもちゃこでら。なんかこういうのを見ると、幼き頃親と一緒におもちゃ屋に来て、買ってもらう時のドキドキワクワクバクバク感を思い出して泣きたくなってくる。

今市遊郭
こぢんまりしたゲーセン(跡)。古い民家にくっついているのが面白い。

今市遊郭
カオルの手造り定食。どんなんだろ。

今市遊郭
スナックDULCE(ドゥルセ)。寒々とした木々が幸薄そうな女性の顔に見える写真がいとをかし。

今市遊郭
ニノキンこと二宮金次郎a.k.a.二宮尊徳を祀る報徳二宮神社参道にあるスナックはじらい。はじらい…既に失って久しいもの。取り戻したくても出来ないものにノスタルジーを感じるのだ。

今市遊郭
道の駅、「ニコニコ本陣」内に貼ってあった、イベント「名画ニッコウ座」のポスター。2018年3月9日、10日、無類の映画好きで知られる水曜日のカンパネラ・コムアイさんが厳選した映画を無料で上映するという。「日光サードプレイス」という地域イベントとも連動しているようだ。

今市遊郭
コムアイさんが訪れたという「純喫茶アラジン」。喫茶店の1階はモダンな感じだけれども、2階が日本家屋丸出しなのが面白い。

今市遊郭
アラジンの向かい側にある「おいしい いまいちの水」。日光連山のふもとであるこの地、水が美味しいことは想像に難くないが、名前のせいで美味しさがイマイチに思えてしまうのは気の毒である。

今市遊郭
ニコニコ本陣の隣にある喫茶店「日光珈琲 玉藻小路」。明治時代の連れ込み宿を改装したお店ということで、遊郭関連を調べている者としては連れ込み宿は大変興味があるが、残念ながら時間がなくて今回は入店ならず。

今市遊郭

今市遊郭
昼食は餃子の正嗣で食べた。日光や今市ではなく宇都宮の名物であるが、宇都宮の本店だと死ぬほど並ばされる。今市店はそれほどでもないのでおすすめである。勿論餃子は美味しい。

日が暮れるまで今市を散策してみたが、先程書いた「名画ニッコウ座」のために来月再び訪れる予定である。

今市だけに、いまいちど訪れるでしょう。なんちて。

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