2017-06-17(Sat)

栃木県小山市小山町遊郭跡地を歩く。

栃木県小山市はかつて「小山遊園地」のCMでおなじみだった栃木県第二の都市。人口約16万人。日光街道の小山宿として栄えた歴史を持つ。

1876(明治9)年の三遊亭圓朝「上野下野道の記」には

『(小山)駅の中程、当今貸座敷五軒(略)昔ハ女郎や十五軒あり』

とあり、宿内に貸座敷(女郎屋)があったことが確認出来る。

1912(明治45)年、宿内にあった貸座敷4軒が思川のほとりに移転し、小山町遊郭が発足した。

『思川の沿岸眺望に富める地にあり妓楼四、紅閣檐を列ね銀燭輝き娼妓三十三人翠袖を翻し嫖客は粉囲香陣の裡に春奢を闘わし昔日の古戦場は歌奏の海となり栄華一の小揚州と謂つべし』

と「小山市史」にその繁栄ぶりが記されているが、1930(昭和5)年の「全国遊廓案内」には

『私娼街が一方に殖えた為遊廓は左程の発達を見る事が出来ない。現在、妓楼は三軒娼妓は約三十五人程居るに過ぎない」

とあり、衰退の様子が窺え、1940(昭和15)年6月1日に最後の妓楼が営業を終え、遊郭は消滅した。

栃木小山遊郭
『若亀の廃業で小山町遊廓全滅 四軒卅名の遊女も夢

小山町遊廓貸座敷若亀事水野龍太郎氏は今一日を以て断然営業を廃業することになった。同所は明治四十五年中當町下町本町内に在った宮藤亀村福吉若亀の四軒が移転したもので当時は娼妓も約三十名居り解悶消愁の地として各方面から先客万来全盛を極めたものであるが町方の芸妓が盛んになるにつれ漸時衰態傾き後を追ふて廃業者出てここ四五年間は前記若亀楼のみにて其の名残りを止めていたものである』

1940(昭和15)年6月1日の下野新聞にはこう記されている。

遊郭消滅から約80年、その跡地を訪ねてみた。小山駅西口からまっすぐ西に歩くと国道4号と交わるので左折、南下していくと大きな神社、須賀神社が右手に見える。関が原合戦の際に徳川家康がこの神社境内にて小山評定を行なったという。

もう少し歩くと二郎インスパイア系ラーメン屋「ハイマウント」があるのでそこを右折すると遊郭エリアに辿り着く。

栃木小山遊郭
この先は思川にぶち当たって行き止まりなのに無駄に道路の幅が広い。遊郭時代からの道幅なのであろう。

栃木小山遊郭
小山遊郭(新地)当時の写真。上の写真とほぼ同じ場所と思われる。時代によって入れ替わりはあると思うが、右手手前に亀村楼、奥に金丸楼、左手手前には宮野屋、奥には若亀楼があったという。

栃木小山遊郭
電柱にある「新地」の文字。このふたつのみが遊郭消滅80年後の現在において確認できる遊郭の名残である。

栃木小山遊郭

栃木小山遊郭

栃木小山遊郭
遊郭の華やかなイメージとは逆に、現在は裁判所や検察庁等、お堅い建物が並んでいる。

遊郭は終戦を待たないうちに消滅したが、現在の小山市は北関東で指折りの裏風俗のメッカである。

栃木小山遊郭

栃木小山遊郭

栃木小山遊郭

栃木小山遊郭

栃木小山遊郭
妖しいお店があちこちにいくつもあって昼間から客引きのおじさんが声をかけてくる。こんなこといいな、できたらいいな、みたいなことが出来てしまうらしい。これこそまさに『私娼街が一方に殖え』ではないか。昔との共通点を見つけて面白く思ってしまった。

栃木県小山市。遊郭も小山遊園地もとっくに廃れたが私娼街は元気である。

夜の、おやーまゆーえんちー。なんちて。

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2017-05-03(Wed)

長野県佐久市岩村田遊郭跡を歩く。


現在は長野県佐久市に属する岩村田は中山道の宿場町だった。そのはずれにかつて遊郭が存在した。

遊郭が出来たきっかけは、岩村田から10キロほど離れた追分宿の衰退にある。江戸時代末期の政情不安や参勤交代がきちんと行われなくなったことにより交通量が減少、更に明治になり鉄道が開通したことから宿場の機能もなくなってしまった。

そこで追分宿の人達は、追分を離れ小諸に遊郭を造ろうとしたが許可されず、1889(明治22)年、当時佐久の行政や商業の中心地だった岩村田に開設した。

岩村田遊郭
(『図説 佐久の歴史<下巻>』より)

岩村田遊郭
(『軽井沢三宿の生んだ追分節考』より)

遊郭の中心には池があり、それを取り囲むように遊歩道や妓楼が配置され、周囲は黒板塀で取り囲まれていたという。

妓楼は追分からの「小川楼」・「永楽屋」・「嘉女屋(亀屋)」・「新嘉女屋(新亀屋)」・「吉野楼」・「大丸屋」・「中喜屋(中木屋)」・「八橋屋」8軒に、岩村田宿から「高地楼」・「大黒屋」・「宝玉楼」の3軒が加わり、計11軒であった。

岩村田遊郭
(『佐久・小諸の昭和史 保存版』より)

その中でも嘉女屋は三階造りの客間の上に四階を太鼓櫓風の小部屋とし、さらにその上にコウモリ形の屋根を付け、ひときわ目立っていた。

すぐそばの鼻顔稲荷神社の参拝客も含め非常に賑わったが、大正昭和の不況や戦争の拡大により客足は衰え、1940(昭和15)年には嘉女屋も取り壊されて韮崎に運ばれて行ったという。

現在、遊郭のあった場所は団地になってしまい何の面影も残っていないが、大門の門柱が現存しているという。それを見るために岩村田を訪れてみた。

岩村田遊郭
まずは岩村田駅前。案内板にも「遊廓大門の跡」と記されており、史跡・名所扱いされている。ちなみに岩村田は「いわむらだ」と読むが、電車内のアナウンスでは

「次は、いわむらーだ、いわむらーだ」

と伸ばして読まれていて、なんかの語感に似ている…と思ったら「たまプラーザ」だった。

岩村田駅から東に歩き、岩村田交差点を南に曲がると岩村田で最も栄えた商店街。岩村田本町交差点で再び東に曲がり下仁田道を10分ほど歩いているとやがて見えて来る。

岩村田遊郭
これが岩村田遊郭大門の門柱。トンネルの向こう側が遊郭エリアとなる。これだけしっかり、しかも左右両サイドとも残っているのは全国でも珍しいのではないだろうか。ここを通り過ぎて行った無数の人達の思惑を想像するだけで遊郭のあった時代にタイムスリップした気分になる。

裏面に

「明治四十一年一月起工
 明治四十一年八月竣成」

とある。西暦1908年であり、既に100年以上経っている歴史的建造物だが、地域のゴミ置き場や民家の庭に浸食され、日常生活の場の中に埋もれてしまっていた。

岩村田遊郭
遊廓内エリアから見た門柱。左奥、屋根に太陽電池が乗っている民家は元床屋だったようだ。冒頭で載せた地図にもちょうどこの位置に「とこや」と書かれており、もしかしたら当時からあった店なのかもしれない。

岩村田遊郭
大門をくぐってすぐ右側に古い建物がある。これは性病患者用の隔離病棟だったそうだ。

トンネルの向こう側は団地。歩いてみたが遊郭の名残りは全く見つからなかった。

岩村田遊郭
(『佐久・小諸の昭和史 保存版』より)

これは湯川に架かる鼻顔橋を渡ったところにある鼻顔神社側から撮った当時の写真。

岩村田遊郭
ほぼ同じ場所から撮ってみた。

遊郭跡巡りはこれぐらいで、あとは岩村田市街地内で味のある建物をいくつか回ってみた。

まずは岩村田交差点近くにある「好楽センター」なる建物。

岩村田遊郭

岩村田遊郭

岩村田遊郭
いくつかのスナックの集合体のようだ。現役の店はほぼないと思われる。

岩村田遊郭
辛うじてまだ営業していると思われる雰囲気がここに。タイ語だろうか。15年ほど前のネットの書きこみ情報によると、ここにはいくつかのタイ系の連れ出しスナックが入っていたという。

岩村田遊郭
そして岩村田本町交差点近くにある「いわんだ・ゴールデン街」。地元の人は岩村田のことを「いわんだ」と呼ぶらしい。ここもタイ系のお店が6軒ほど集まっており、その中に日本の飲み屋が3軒ほど混じっている状況である。

岩村田遊郭
入ってみると、おお、りんごとスターでリンゴ・スターだ。なんちて。手前の店のドアが開いており、そこから見えたママさん(だろうか)に

「コンニチワ」

と挨拶され、僕も慌てて「こんにちは」と返事をする。

岩村田遊郭
左側の長屋もボロいが右側の「たつみ」の今にも崩れ落ちそうな寂れ感がたまらなく良い。

岩村田遊郭
更に進むと「フレンド」の中からママさんが出て来て

「コンニチワ!」

やはり挨拶をして僕の前を颯爽と歩いてゆく。僕も「こんにちは」と声をかけ、ママさんの後を付いて更にゴールデン街の奥へ進もうとしたら、彼女がこちらを振り向き

「イキドマリなのでーす!」

と言うのであった。

「?」

と思って突き当りを左に曲がってみると、確かにそこはトイレであり、行き止まりであった。

「ホントだ、あはは」

「アハハ」

タイのママさんは気さくである。

岩村田遊郭
Uターンしてゴールデン街を後にした。

岩村田の商店街はかつては佐久地方の商業地の中心としてかなり栄えたようであるが、現在はレトロで寂れた商店街という感じが否めない。

ここから歩いても20分程度のところに長野新幹線の佐久平駅が出来、駅周辺が開発されてイオンモールやベイシア等の大型商業施設や郊外型店舗が立ち並び、客足はすっかりそちらに奪われてしまっている。

岩村田遊郭が出来たきっかけとなった、かつての追分宿が衰退と状況が似ているのではないだろうか。

しかし岩村田の商店街を歩いてみると、商店街振興組合が運営する手づくり惣菜の店「本町おかず市場」や商店街直営の塾「岩村田寺子屋塾」など地元活性化のために手がけている施設をいくつか見ることが出来た。

昼ご飯を食べに入ったのもそのうちのひとつ。「三月九日青春食堂」。店名はちょっと恥ずかしかったが、ご当地メニューが豊富で良い。

岩村田遊郭
「いわんだセット」1,000円。

地元の農業高校とコラボして生まれた豚肉たっぷりの「北濃カレーうどん」、地元信州味噌発祥の安養寺の味噌を使用した「安養寺味噌ぶた丼」、どれもとても美味しかった。コロッケも。

岩村田遊郭
夕方の6時前、ちょうど「いわんだ・ゴールデン街」と道を挟んで反対側にあるバス停から高速バスに乗り、岩村田を後にした。

ゴールデン街には明かりが灯っていた。時間が許せば寄って行きたかったな。

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2017-02-19(Sun)

宇都宮の遊郭跡・赤線跡・花街跡を歩く。

宇都宮の遊郭跡と赤線跡と花街跡を訪れてみた。


まずは遊郭。宇都宮の遊郭は旧宇都宮城内の南端、河原町にあった。

宇都宮遊郭
『宇都宮商業地図(明治の宇都宮, 3)』より

1894(明治27年)、これまで伝馬町(大通りとユニオン通りの間あたり)、池上町(オリオン通り裏のソープ街あたり)、材木町(伝馬町の西)にあった12軒の妓楼が移され、遊郭が形成された。亀の字のような区画の形だったので「亀廓」と呼ばれた。

宇都宮遊郭
その入口の大門には

「春入翠帷花有色」(右側:はるはすいにいってははなにいろあり)
「風來繍閣玉生香」(左側:かぜはしゅうかくにきたってたまこうをしょうず)

と記されていた。ちなみにこの漢詩は同じ栃木県烏山町の旭遊郭の大門にも記されている。

妓楼は大籬(おおまがき)と小楼(こみせ)のふたつに区別され、大籬は元池上町にあったもの、小楼は元材木町にあったものだった。

宇都宮遊郭
大籬のひとつ、小松楼は木造三層から成り、三層は時計台のある展望台だった。この時計台はひときわ目立つ建物だったようで、

宇都宮遊郭
木版画家・川上澄生の「宇都宮新地風景」にその姿が確認できる。

宇都宮遊郭
また、石版画家・織田一磨の「たそがれ」にも描かれている。

このような風情と趣きのある遊郭、ぜひタイムスリップしてでも訪れたいものであるが、「たそがれ」とほぼ同じ場所と思われる現在の風景は…

宇都宮遊郭
こんな感じである。風情のかけらもない。ただの住宅地と空き地である。当時の面影はほとんどない。しかし住宅地にしては幅が広い道路は当時のままであり、↑の画像から回れ右するととんでもない建物が残っていたりする。

宇都宮遊郭
それがこれ。どピンクのカフェー調な建物。

宇都宮遊郭
崩れ落ちそうな庇。いったい何物なのだろうか。先程の地図にある「福泉楼」(「宇都宮繁昌記」には「福和泉」と表記)の位置に当たる。しかもこの建物、とても大きくて

宇都宮遊郭
南北方向(画像左側)には長屋のように長く伸びていて、

宇都宮遊郭
南端には「幸」のシンボルマークが付いた2階部分に取って付けたような増築部があり、とても奇妙である。

宇都宮遊郭
そして東西方面にこうなって、

宇都宮遊郭
宇都宮遊郭
更にはこうなって、大谷石の蔵までひと繋がりになっている。ずっと後の時代の住宅地図によると、この建物の長屋っぽいところは「幸楽貸室」、蔵部分は「幸楽質店」となっており、遊郭廃止後はアパートや質屋として使用されていたようだ。

宇都宮遊郭
間を進んでゆくと…

宇都宮遊郭
福助人形がいてかなりびびった。驚いた。

宇都宮遊郭
敷地の端に祀られているお稲荷様の祠。狛狐の台座に「福和泉」とはっきり刻まれていた。


宇都宮の色街はこのエリアの他にもうひとつあった。亀廓とは宇都宮城址を挟んでほぼ反対側あたり、通称「中河原」と呼ばれていた現在の宇都宮市中央5丁目付近に色街の名残りを見る事が出来る。

戦後間もない頃は亀廓と中河原のふたつが宇都宮の「赤線」と呼ばれていたようである。『全国花街めぐり』には

『剣の宮町から旭町の方へ抜ける日野の裏通りの一画、俗に「剣の宮町」と云つて居るが所謂宇都宮の玉の井で、白壁ほどに塗立てた女が狭い路次の軒並に巣づくつてゐて、日が暮れてからはとても徒歩では通れぬやうなところである。』

とあり、なかなか凄まじい様子であったらしい。現在は

宇都宮遊郭
このような飲み屋長屋が残る街角に、

宇都宮遊郭
宇都宮遊郭
宇都宮遊郭
宇都宮遊郭
なんとなく川崎のちょんの間を思い出させる建物と雰囲気。今でも夜になればひっそりと明かりが灯り、「白壁ほどに塗立てた」老女が営業していそう。

宇都宮遊郭
中央5丁目から少し南、いちょう通りを渡った中央3丁目にもこのようなレトロな建物が。更に南に行って本丸3丁目には

宇都宮遊郭
「赤線跡を歩く」(木村聡著)にも乗っている木造の建物。

宇都宮遊郭
こちらは北面側。入口がふたつある妖しい建物であるが、現在は普通の住宅として使用されているようである。

「中河原」とは遊郭のようにカチッと区画されたエリアではなく、宇都宮城址の北東エリアから釜川あたりの広い範囲に妖しいお店が点在していた区域を指していたのかもしれない。


中河原からだいたい西の方向に歩いて行くと、宇都宮で一番の繁華街、オリオン通りに辿り着く。その1本隣の通りに現役の風俗街、池上町がある。

宇都宮遊郭
メインストリート。

宇都宮遊郭
味のある横丁を発見。

宇都宮遊郭
奥に行くと二手に分かれており、なんだかとんでもない路地裏に迷い込んだ。

宇都宮遊郭
もう一方のどん詰まりにはやはりソープランド。

横丁の名前にある「江野町」とは、そういえば『全国女性街ガイド』には

『花街は馬場大通りの東武宇都宮駅附近にある江之町、宮園町界隈』

とあって、芸妓が150人、料亭も102軒もあり北関東随一の花街だったが、面影は全くなくなってしまっている。


ではもうひとつの宮園町はというと、現在の宮園町は西半分が東武宇都宮駅と東武百貨店で、東半分が飲み屋街になっている。しかし空き地が目立ち、古ぼけた飲み屋と怪しいお店がポツリポツリと点在している、寂れた印象である。

宇都宮遊郭
怪しいお店。噂によるとエロい店らしい。

宇都宮遊郭
このボロボロの建物はすごい。表がこうで、

宇都宮遊郭
裏がこうである。

宇都宮遊郭
100年以上の歴史を持ち、大谷石建築の聖堂が国の登録有形文化財に登録されている「カトリック松が峰教会」から徒歩10歩ぐらいの距離にソープランドがあることに驚く。

聖と俗がこんなに近過ぎていいのだろうか。僕も祈らずにはおられない。

○ーメン(すいません)。

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2017-01-24(Tue)

千葉県松戸市「平潟遊郭」跡地を歩く。

千葉県松戸は、陸路では水戸街道の松戸宿として、また、水路では江戸川水運の要所でもあることから栄えた。

平潟遊郭
松戸宿から北西方向に10分ほど歩いたところにある平潟遊郭は(↑の地図左上、黄色く塗ったところが遊郭のメインストリート)、その旅人や水運関係者達のお世話をする飯盛女(夜のエロいお相手もした)を旅籠屋に置いたことがルーツであるようだ。

松戸駅西口から流山街道を北上し、「かざね薬局」と「銚子商工信用組合」の間の道に左折。やがて坂川にかかる水堰橋を渡ると十字路の向こう側、谷口ビルの角に道標が残っていた。
平潟遊郭
「右 流山 野田 道
 左 平潟遊廓  道 
 根本川岸組合   」

とある。その通り左に進んで行くと、1868年開業という「松戸シティホテルSENDAN-YA」(旧「せんだんや」)前に出る。

平潟遊郭
その裏あたりに平潟遊郭の東の大門があった。

平潟遊郭
遊郭のメインストリートがこちら。江戸時代から続き、関東大震災後に全盛期を迎えたという平潟遊郭も1958年の売春防止法の施行により全ての妓楼が廃業。その後建物は学生寮などに利用されたが1994年に最後の建物が撤去されてしまったらしい。

平潟遊郭

平潟遊郭
現在はほぼ住宅、マンション、空き地になっており、古い街灯と遊郭が存在した時代からあったという柳がわずかに当時の面影を残す。

平潟遊郭

平潟遊郭
遊郭に隣接する平潟神社。天水桶は遊郭内にあった「九十九楼」の寄贈によるもの。

平潟遊郭
平潟神社とほぼ向かい合っている来迎寺。ここにも「九十九楼」と刻まれた墓石があった。あまり読めないが正面には「……信女」、側面には「大正十四年 九十九楼娼妓一同 …一同」と刻まれている。

平潟遊郭
大正時代の平潟遊郭。右側の建物がその九十九楼だという。

平潟遊郭

平潟遊郭
やはり大正時代だと思われる平潟遊郭の西側の大門の写真と、現在の様子。左側は日大の学生寮になっている。

平潟遊郭
「メロリンキュー」。こんな落書きや、もう何年放置されているか分からない幼稚園の送迎バスや、草ボーボーで朽ち果てたテニスコートなどが醸し出す寂れた感じが、かつて煌びやかに栄えていたこの街の歴史と対照的で物悲しかった。

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2016-03-24(Thu)

栃木県佐野市「堀米遊郭」跡地を歩く。

「堀米町遊郭」は、現在の栃木県佐野市堀米町安良町上、日光例幣使街道から少し北に奥まったところにあった。

1923年「栃木県下職業別電話名簿大正12年度版」の「貸座敷業の部」には富田楼、若亀楼、亀楼、本肴楼、新肴楼、福田楼、藤本楼の記載がある。

また、1930年「全国遊廓案内」には「妓楼数約9軒娼妓約36人位居り」とある。

堀米遊郭
メインストリートを南側から撮影。

堀米遊郭
現在は古い民家がちらほらと残る、ごく普通の住宅街。

堀米遊郭

堀米遊郭

堀米遊郭

堀米遊郭
メインストリートを北側から撮影。

堀米遊郭
遊郭の面影は全く残っていないが、例弊使街道から遊郭を結ぶ道が左右にくねっていて、吉原の五十間道を思い出させる。

遊郭エリアに面した家に「大門」さんがあったが偶然だろう(笑)。

近隣の真光寺には、「哀悼の碑」という石碑がある。裏面に

「例幣使街道沿いの遊郭に生きた
女性たちの御霊が安らかなることを  
合 掌 
町谷町 ○○ ○ 
平成13年12月吉日  真光寺 建立」

と刻まれている。

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