2020-08-18(Tue)

栃木県佐野市堀米遊郭跡地と佐野市街を歩く

現在は栃木県佐野市に属する堀米町にあった堀米遊郭、および佐野市の中心部を訪ねてみた。

まずは堀米遊郭。

そのルーツは江戸時代、日光に続く例幣使街道(れいへいしかいどう)の宿場町犬伏宿にある。犬伏とは堀米の隣町の名前だが、犬伏と堀米のふたつで犬伏宿が形成されていた。

当時の宿場町とその周辺の村は伝馬制により幕府公用の旅人の世話を義務付けられており、そのために各宿の負担にて一定数の人馬を常備しておかなければならなかった。

この負担が大きく本業ではまかないきれないため、お役人に訴えて今でいう風俗店を始めたところが多かった。

すなわち、旅人のお世話をする飯盛女(めしもりおんな)という名目でエッチなサービスをする女郎さんを雇う飯盛旅籠(めしもりはたご=女郎屋)である。

このあたりはな彦根藩の飛び地だったことがあり、幕末の頃井伊掃部頭直弼の頃、佐野町の某が女郎屋の弊害を直訴したため女郎屋は悉く廃された。一部は近隣の宿場町である富田や合戦場に移って行ったという。

1865(慶応元)年に八王子から日光まで旅をした原弥源太という人が書いた『八王子より松山通り日光道中記』によれば

「横手町曲がりてあら町(荒町もしくは安良町:現在も堀米の小字として残る地名)此両所には女郎屋37件あり候処今はつぶされ候」

とある。しかし桜田門外の変で井伊直弼が殺害された後、再び女郎屋は盛んになり、明治維新頃は殆ど女郎屋で生活するぐらいであったという。

明治時代になって政権や法律は変わり、エッチなお店についての考え方も変化し、女郎屋は「貸座敷」、女郎は「娼妓」と呼ばれるようになり、また、さすがに街中に風俗店が堂々とあるのはまずくない?ということで街の中心から少し離れたところに女郎屋をまとめて移設しよう、ということになった。

これが「遊郭」である。

堀米遊郭のオープンは1908(明治41)年だが、それ以前の堀米の貸座敷数と娼妓数を確認してみたい。国立国会図書館デジタルコレクションで見れる「栃木県警察統計表」に載っていた数字である。

1882(明治15)年は貸座敷24軒、娼妓数は204名、1892(明治25)年では14軒、105名。10年で軒数娼妓数共に半減に近くなっているが、これでも栃木県内ではかなり多い方である。

明治時代後半の『栃木県営業便覧』によれば、横手町には塚田楼、角福楼、安田楼、新肴楼、若亀楼、本肴楼の7軒、安良町には塚吉楼、松楼、藤本楼、松吉楼、亀楼の5軒、計12軒の女郎屋が記載されている。

栃木県内で一番の都会といえば昔も今も宇都宮がブッチギリであるが、宇都宮の遊郭「亀廓」は1882年では貸座敷60、娼妓159で、1892年はそれぞれ32、98である。

つまり貸座敷数は宇都宮の方がはるかに多いのに、娼妓数は堀米の方が多いのである。何か集計のマジックがありそうだが100年以上前のことなのでさすがにそれは分からない。

ともかく堀米は宇都宮に次ぐくらいの大きな遊郭であったと言える。

堀米遊郭のオープンは前述のとおり1908(明治41)年だった。その竣工式が4月18日に行われ、当時の「下野新聞」にそのレポが書かれている。式が始まるのは12時と聞いていたのに15時だったとか、いきなり花火をぶっ放して参加者の度肝を抜いたとか、来賓への食べ物が少ないとかディスリ気味の記事が面白おかしく掲載されていた。

遊郭誕生直後のラインナップは以下の通り。貸座敷数9楼である。

冨田楼
若亀楼
亀 楼
安田楼
松吉楼
藤本楼
福田楼
新肴楼
本肴楼

堀米町遊郭」
場所はこのへん。JR両毛線・東武佐野線佐野駅から徒歩20分ほどであろうか。

堀米町遊郭
これは1921年(大正10)頃の遊郭の再現図である。上記記載の貸座敷の他に芸者屋や三味線屋、駄菓子屋、射的場、鎮守(八幡山出世稲荷神社)があったことがわかる。

堀米町遊郭
現在の遊郭跡に向かってみた。例弊使街道から遊郭を結ぶ道がS字クランクのように左右にくねっており、吉原の五十間道を思い出させる。

堀米町遊郭
ここが入口。


当時の写真である。「春は馬車に乗って」さんのツイートを引用させていただきました。

大門がしっかりと写されているが、先程の竣工式の記事には

「『堀米遊廓』と筆太に刻された大谷石の大門だが、大門といえば何處の廓で春夢まさに濃かなりとか何んとか粋な文字があるのであるがコレは亦野暮の骨頂」

などとまたディスられている。宇都宮と烏山の遊廓の門柱には右に「春入翠帷花有色」、左には「風來繍閣玉生香」と刻まれており、このような対聯(漢詩)を入れるのが当時の粋だったのだろうか。

堀米町遊郭

堀米町遊郭

遊郭のメインストリートに面したところに古い建物が残る。佐野市の広報には

「当時の建屋はT家の敷地内にある富田楼と通りに面した若亀楼の一部が残るのみ」

と書いてありこの建物の写真も併せて掲載されているのでこの建物が「若亀楼」と断定できる。もうひとつの建屋、T家の敷地内にある富田楼というのは

堀米町遊郭

堀米町遊郭
T家に残る古い建物はこれしかない。この建物が「富田楼」だったと言える。

遊郭のメインストリートを北上すると遊郭の北西の端、安田楼があった場所には現在でも同じ苗字の方が住んでおられる。ふと庭を見ると

堀米町遊郭
「安田楼」と浮き彫りされた瓦が飾られていた。ちょうど庭に奥様らしき方がいらっしゃったので

「おはようございます。わたくし遊郭を調べている者でして…」

と挨拶して瓦すごいですね的なことを伝えると

「せっかくですからどうぞ」

と庭に入れてくれて写真も撮らせていただいた。ただ遊郭についてはあまりご存じないようで

「こんなものしか残ってなくて」

「こんなことならもっと昔のこと聞いておけばよかったワ」

などと話され

「ここの他にも遊郭はあったんですか?」

逆に聞かれてしまったりもした。遊郭の遺構に興奮して不審者丸出しだったろうにご親切にしていただいた奥様にお礼を言い遊郭を後にし次なる目的地へ。

堀米町遊廓

堀米町遊廓
遊郭のすぐ近くにある真光寺。ここには、「哀悼の碑」という石碑がある。空気を読まない微妙なピカチュウとかドラえもんが気になるところではあるが、

「例幣使街道沿いの遊郭に生きた
女性たちの御霊が安らかなることを  
合 掌 
町谷町 ○○ ○ 
平成13年12月吉日  真光寺 建立」

というメッセージ。遊郭がなくなって久しい平成の世になってから改めてこの碑を建てられたお気持ちというのはどのようなものなのだろう。

遊郭は昭和の太平洋戦争勃発まで続き、戦時中に廃業に追い込まれるが小部屋のあることからアパート化し、東京などからの疎開者を受け入れた。戦後、一部の業者が再開し、群馬県の大泉や太田に駐留した米兵の客なども客にしていたもののやがて消滅した。おそらく1957年(昭和32)の売春防止法完全施行まで持たなかったのではないだろうか。遊郭はなくなったが佐野駅前の中心街には芸者を置く花街や特殊飲食店(青線)、すなわち公に認められた売春営業ではないエッチな店が栄えており、そちらが繁栄してゆくことになる。

そんなわけで堀米町遊郭探訪はこれぐらいにして佐野市街に移動する。僕は高校生ぐらいまでは佐野の街にたまに訪れていた。今でこそ駅前は区画整理されて綺麗になっているけれども、当時は駅前からゴミゴミしていて細い路地裏から飲み屋の看板が顔を覗かせていた。

当時の僕はそんな風景に魅かれながらも勇気が出ず行けなかったものだ。しかし今でもそのような場所は残っている。

佐野ラーメン大和
佐野ラーメン大和
佐野駅前に移動する前に昼飯。佐野ラーメン「大和」でラーメンと餃子。僕の地元の水に近いせいか一番好みである。スッキリ味の醤油スープ、もっちもちの青竹打ち麺、味わいたっぷりのチャーシュー、味玉も餃子もしっかりとうまかった。

腹ごしらえ後、佐野駅に向う。佐野駅と堀米遊郭の間ぐらいにある「若松町」と呼ばれる一帯。佐野駅のちょい東ぐらいのあたりである。

佐野市若松町
いきなりすごい飲み屋跡が出て来る。まるで手塚治虫のマンガ「ブラックジャック」で体中から葉っぱが大量発生した少年のようなビジュアル。

佐野市若松町
「愛鈴」とかいて「アイリン」と呼ぶ。なんだかフィリピンパブみたいな名前だがこれを覚えておこう。

佐野市若松町
ショートケーキのような、鋭く三角に尖ったスナック風の建物。

佐野市若松町
「カフエー」の鑑札がありテンションが高まった。

佐野市若松町
ふと細い路地があることに気付く。その奥には飲み屋の看板がオイデオイデしており、見逃すわけにはいかない。

佐野市若松町
ハートマークがめちゃくちゃポップだ。

佐野市若松町
こんな細い通りにも名前が付いている。しかも二条通りとか京都ばりに雅び。

佐野市若松町
先程路地の奥からオイデオイデしていた看板たち。

佐野市若松町
お店はここ。

佐野市若松町

佐野市若松町
その他路地裏に潜む建物たちの風景が凄い。建物の中でメトロン星人がちゃぶ台を前にあぐらかいてそうな感じ。

佐野市若松町
この三連の建物の△△△が三つ子みたいで可愛いなと思ったが…愛鈴!さっきあったよね!草にまみれた愛鈴と書いてアイリン!…と思ったら「金鈴」だった。

佐野市若松町
こちらの路地も素敵すぎる。

佐野市若松町
特に「きくの家」の建物からはご主人と思われる方が出て来て洗濯物を干しており、カメラを構えた僕を見てギョッとした表情ですぐに中に入ってしまった。あやしいもんじゃないよ、おいらベロってんだ、とか気さくにこの界隈の歴史などをうかがいたかったが、さすがにそこまで陽キャではなかった。お店自体はもうやってはいないようではあるが。

このように古い街並みだからといって誰もいないというのは誤りで、洗濯物を干しに出て来るとか、テレビの音が漏れて来るとか、この季節だとエアコンの室外機が動いているとか、「お盆休みします」の貼り紙だとか、僕のような物好きが訪れる遥か前から生活している人達の気配が感じられ、その人達と街並みに敬意を以て街歩きをしなければならない。

佐野市若松町
路地裏をうろうろしてちょっと方向感覚が分からなくなり「暖炉」の先を抜けると

佐野市若松町
立派な割烹店がある通りに出た。ちょうど変にうよんと曲がった電柱のそばから出て来た格好になるが、その電柱には

佐野市若松町
「花町」と書かれており華やかな街だったことが分かる。かつては芸者置屋もあったそうだ。

佐野市若松町
若松町を離れると、打って変わって西洋建築。竹澤外科院。

佐野市若松町
日本基督教団佐野教会。三角三角した屋根のカクカクさと丸みを帯びたエントランス・窓のふっくらさのコントラスト、淡いピンクと白の色合いがとてもかわいい。

佐野市若松町
高床式倉庫みたいなのが火事で焼け残った感じ、なんだこれ…と思って後で調べてみたら

佐野市若松町
佐野鋳造所のかつての工場の一部だった。そういえば「天明鋳物」は佐野の伝統工芸であった。戦国武将・松永久秀が所有していた茶釜「平蜘蛛釜」も天明産である。

久秀は当時仕えていた織田信長を何度も裏切ったのに、信長は「平蜘蛛をくれれば許してやる」と要請した。しかし久秀はプライドが許さなかったのか断って打ち壊しており、それほど価値のあった茶釜であった。

おもちゃの京屋
おもちゃの京屋。かわいい。

娘屋
スクールショップ娘屋。ブルセラ感あるが老舗の地元学校御用達の洋品店である。

佐野市伊賀町
伊賀町にもこのように細い路地から顔を覗かせる飲み屋さんがある。

佐野市伊賀町
ぎょうざの店一番。後ろに見える2階だけ渡り廊下みたいになってて、その下を路地が走るのを含めてすごい密度が高い路地裏風景であり感動。

佐野市伊賀町
しかもちょっと下がるとふすま1枚分ぐらいだけの塀があり「鈴木」。渋すぎる。

佐野市伊賀町
なんなんだこの通り抜けは…。

佐野市伊賀町
右を向くと壁面から木がニョキニョキと。

佐野市伊賀町
つきあたりのやはり飲み屋さんっぽい家の脇の戸が開いていた。ピンクの地面が気になったがさすがに私有地っぽいのでこの先には行けなかった。

佐野市伊賀町
もとは連れ込み宿かなと思ってしまう旅館。

佐野市伊賀町
またまた路地裏が僕を誘う。青い矢印が「ぬけられます」と言っている。

佐野市伊賀町
ここもまた非常に狭くて密度が高い路地裏。そもそも僕が伊賀町を歩いているのは1952(昭和27)年の「下野新聞」に特殊飲食店の繁栄ぶりが記されていたからだ。

『伊賀町だけで21軒、平均50名の接客婦がおり(中略)市署による風紀取締りの眼を抜けて狭い道路に客引きの女がはびこり、通行人の妨害をする』

とあり、客引きの女がはびこっていたという狭い道路とはここのことかな…などと想像しながら今でも客引きとすれ違ったりして、なんて思いつつ歩いていたところ

佐野市伊賀町
この椅子は…まさか現役店?ちょんの間とかコッソリエッチなことをしているお店では、入り口の脇にやり手ババアとかポン引きのおっさんが座っていて客引きしているんである。さすがにこの場所で今もやっている可能性はゼロだがこの日一番驚いた光景であった。

佐野市伊賀町
市役所近く。この通りがかつて「芸者横町」と呼ばれていた。現在のギオン通り。名前のわりにはこれまで歩いてきた街並みに比べて何のインパクトもなかった。やはり区画整理されて浄化されてしまったせいだろうか。

佐野市伊賀町
佐野駅北口方面に向かう途中にあった商家。

佐野市伊賀町

佐野市伊賀町

佐野市伊賀町
「ホテルワンスモア」跡地。僕が高校生ぐらいの時からあったラブホで、訳すと「ホテルもう一発」であり、なんてアホな名前なんだと思っていたら1度も行かないうちに閉店してしまっていた。残念なことである。

以上で堀米の遊郭と佐野の街の探索は終わった。佐野は空襲を逃れ、再開発も遅れているせいか路地裏がまだまだたくさん残っていた。

1943(昭和18)年に学徒出陣し、佐野で終戦を迎えた司馬遼太郎も「私の関東地図」で

『私自身、町育ちのせいか、佐野の露地から露地へ通りぬけるのが、たまらなく好きだった』

と記している。僕もそんな感じで街を歩いていた。

しかし1日ではとても廻り切れず、ワンスモアしたいものである。


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2020-07-28(Tue)

栃木県さくら市『氏家町遊郭』跡地を歩く

栃木県の真ん中少し北ぐらいにある「さくら市」は旧氏家町と旧喜連川町が合併して出来た。

そのうち氏家は江戸時代奥州街道の宿場町として栄えた。栄えている宿場町にはだいだい「飯盛女」と呼ばれる女郎さん(娼妓)達がおり、「飯盛旅籠」と呼ばれる旅館(女郎屋)で彼女達の(性的な)サービスを受けられた。

それらは明治時代になっても引き続き存在したが、今でいえば風俗店にあたるものが街中に堂々とあるのは風紀上よろしくない、ということで街中から離れた新しい土地(新地)を整備しそこに集められることになる。これが遊郭である。

氏家の遊郭は1908(明治41)年、奥州街道から少し離れた場所に開業した。移転した貸座敷は4軒。遊郭の地名は「櫻野」といい、「さくら市」の名前の由来の一つである。

氏家町遊郭
場所はこのあたりである。氏家駅東口から駅前通りを進み、突き当り旧奥州街道を南へ行き、仲町の信号を東へ曲がり、五行川を渡ったところにある。

北西:齋藤楼。北東:松石楼。
南西:丁字楼。南東:松野楼。

昭和になると「福佐楼」という貸座敷の名前も見られ、増えたのかもしくはどれかと入れ替わったのか。「福佐楼」という名は同じ栃木県内でほど近い烏山旭遊郭にもあり、もしかしたら関係のある店かもしれない。

氏家町遊郭
1918(大正7)年「氏家・喜連川町営業案内附明細地図」にははっきりと十字路を中心とした四角いエリアの遊郭が記されている。

1930(昭和5)年「全国遊廓案内」には

『遊廓は町続きの田んぼに突出した所にあって、川を渡った向こう側になっているので、ちょっと閑静な所である』

と書かれていて、地図のとおりである。

遊郭があった当時の「下野新聞」には読者投稿による各楼の評判がいくつか載っており、1909(明治42)年には

『松石楼及齋藤楼は客に対する宛然(さながら)ゆすり的なり』

と記されており、かなり強引な客引きとかボッタクリをしていたのだろうか。

また、1913(大正2)年には

『誠実勉強が丁子屋(丁字楼)、玉揃へで悪辣が松石(楼)、勘定が高くて薄情が松の屋(松野楼)鬼虫面ばかりで可もなく不可もないのが斎藤楼』

とある。

褒められているのは丁字楼だけであり、松石楼は女郎さん達が悪辣、松野楼は高いし薄情、斎藤楼に至っては「鬼虫面」(オニムシとはこの辺の方言でカブトムシやクワガタのこと)というすごい言葉でディスっている。

1911(明治44)年には下野新聞8千号のお祝いとして「氏家遊廓一同」の広告が掲載されており、そこには娼妓ひとりひとりの名前も併せて記されていた。それによると各楼の娼妓数は松石楼8名(ほか抱藝妓:芸者さん1名)、丁字楼9名(抱藝妓2名)、斎藤楼6名、松野楼5名で4軒で娼妓合計28名ということになる。

「全国遊廓案内」では4軒15名程と記されており、昭和に入るに従って衰えて行ったようだ。遊郭がいつまであったかは分からないが、1931(昭和16)年の下野新聞に人の金をだまし取って氏家遊郭で遊んだ男が捕まった…という記事が載っていたことは確認している。が、おそらく戦後までは続いていないのではないだろうか。

氏家町遊郭
現在の遊郭跡地。遊郭の中心の十字路を北側から撮ったもの。普通の住宅が建っていたり駐車場になっていたり遊郭の面影は全くない。なさすぎて「写真撮らなくてもいいか」と思ったくらい。

氏家町遊郭
「松石楼」があった場所であろう駐車場に佇む哀愁漂う車。矢沢栄吉のCDとか入ってそう。

氏家町遊郭
「斎藤楼」跡地のすぐ近くに斉藤さんの家があった。もしかして関連があるのだろうか。

遊郭を後にして氏家の街並みを見ることにする。

氏家町遊郭
モダンな建物。斉藤歯科。あっここも斉藤さんだぞ。

氏家町遊郭
かくまる商店。もと酒屋さんだろうか。

氏家町遊郭
亀田屋菓子店。

氏家町遊郭
お米の宝高屋(ほうたかや)。さすが宿場町、街道沿いには歴史の重みを感じる立派な商家が残っている。

氏家町遊郭
中でもひときわ素敵な建物がこちら。

氏家町遊郭
小倉屋洋品店。明治時代の地図にも「小倉屋」と屋号が記載されており、古くから続くお店だと分かる。現在は「まちかど館」として市の観光関連の建物となっている。

氏家町遊郭

氏家町遊郭
僕はスナックが集まるスナック長屋やスナックビルも好きである。こちらは街道沿いにある「サンパティオII」なるスナックビル。建物の左側にお店が連なっているので入ってみると、

氏家町遊郭
おお、普通の長屋形式ではなく斜めな角度がついていてよい。更に進むと…

氏家町遊郭
えっ。奥に別のスナックビルが?

氏家町遊郭
おおー。こちらは円形エントランスなスナック長屋。

氏家町遊郭
そして「銀の目」の横を抜けると…

氏家町遊郭
反対側の通りに出た。こちらは「サンパティオI」であり、兄弟スナックビルなのである!IとIIは通り抜けできるのであった!この洞窟を探検するようなワクワクさよ。氏家スゲー!(ひとりで盛り上がってる感)

氏家町遊郭
サンパティオIの通りを少し南に行くと、こちらにもスナック看板がチラホラ顔を覗かせるいい感じの通りが。

この通りの名前がズバリ「花街通り」なのである。さぞかしこのあたりで芸者さん達が活躍したことだろう。

氏家町遊郭

氏家町遊郭
花街通りの脇にもスナックが。あまり大きな街ではないのにこれほどのスナックが並んでいるこの界隈、花街の名残りと言えよう。

氏家町遊郭
この地図のようにかつては花街っぽいお店「割烹土屋」「割烹よし江」等があったが、現在は例によって普通の住宅や駐車場になっている。

氏家町遊郭
「割烹土屋」跡の駐車場にぽつんと残るお稲荷さんと向かいの八百屋さんの店先。

氏家町遊郭
話は思いっきり変わる。栃木県には「109」はないが(宇都宮にあったが閉店)「108」(東野:とうや)がある。ていうかあった。東野こと東野交通は栃木県内にてバス・タクシー・那須ロープウェイ、昔は鉄道事業も行なっていた会社だが、現在は関東自動車に吸収されている。しかし、会社は消滅したがまだロゴは東野ゆかりの地に残っているというわけである。

氏家町遊郭
氏家駅前の喫茶フェニックスと氏家タクシー。どちらもレトロかつ現役営業中なのが凄く頼もしい。また、喜連川温泉への誘いがこの駅前が単なる駅前ではなく楽しい観光地への入口なんだぞ、という感じで旅のワクワク感もあっていい。男前な駅前だ。

氏家の街を後にし駅で電車を待つ。地元のさくら清修高だろうか、学生が多かった。僕も高校時代のことを思い出した。高校時代の友人K君が言ったことを。

「おれさー、苗字で一番かっこいいのは『氏家』だと思うんだよね!」

氏家も喜連川もかっこいいよなあ…。K君、元気だろうか。

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2020-07-03(Fri)

栃木県那須塩原市黒磯遊郭跡地を歩く

栃木県最北の市、那須塩原市。

市内の黒磯駅の近くにかつて遊郭があった。

黒磯の街は1886(明治19)年に東北本線が黒磯まで開通し、黒磯駅が開業してから急速に発展した。

そして1899(明治32)年9月、栃木県令60号「遊郭設置規定」により、これまで遊郭を設置していいよ、と定められていた16箇所と、黒磯を含んだ新たな9箇所が加わり、計27箇所が遊郭設置指定地となった。

もともと定められていた16箇所はほとんどが宿場町で、江戸時代街道沿いにあった「飯盛旅籠」と呼ばれた売春宿があった場所である。

明治になり「貸座敷」と名を変え残っており、街中に堂々と売春店があるのは風紀上よろしくない、ということで街はずれの決められたエリアに移すことに決めた。これが遊郭である。

しかし黒磯を含む新たな9箇所は貸座敷が全くない町であり、突然の指定だった。地域によっては激しい反対運動も行われたが結局9箇所の内7箇所は遊郭が設置されることとなる。

黒磯もそのひとつ。

「栃木県警察統計表」の「貸座敷娼妓開廃業」の表では1900(明治33)版に初めて「那須郡東那須野村大字黒磯」の欄が出来、貸座敷開業数7と記されている。しかし娼妓数は0であり、営業に先だって貸座敷業者が先行して登録したものと思われる。

翌年の1901(明治34)年版では何故か黒磯の欄が無くなってしまっているが、更に翌年の1902(明治35)年版では年初(=前年末)に貸座敷数4、娼妓数7、と記されていることから実質的な営業開始は1901(明治34)年であると考える。

遊郭設置規定からわずか2年で開業する早さには違和感がある。

遊郭設置規定発布直後の1899(明治32)年9月15日の「下野新聞」には既に

「黒磯停車場の近況

貸座敷新設の計画あり既に或者は旧黒磯地内に敷地を買入れ9日頃売買登記済となりし筈なり」

とあり、既に遊郭指定地の土地を確保し登記まで済ましている者がおり、この早さはどこからか情報がリークされていたとしか思えない。

それを裏付けるものとして新聞「日本」1899(明治32)年9月の記事に当時新聞記者だった寒川陽光(鼠骨)が「論説」の中で栃木県遊郭設置規定についての汚職を不正を挙げている。
一部抜粋すると

『栃木県の書記官某(樺山喜平次)は、文部大臣樺山伯(樺山資紀)の親戚にして、曾て久しく足利に郡長を務め、種々営利の業を事とし、特に鉱毒事件に関して獲得する所少なからず、今は十五六万円の財産にして、地方書記官の金満家を算する、必ず第一指を此に屈せざるを得ず、頃日、知事(溝部惟幾)、警部長(有川貞寿)と共に或る運動家及び実業家と結託し、利益の分配を約し、県令六十号を以て遊郭設置規定を定め、現存する十六箇所の他、新たに九箇所の増設を許し、特に九箇所の中、矢板、黒羽、黒磯、真岡、久下田、壬生、田沼には、設置の強制命令を発し、而して矢板町の指定地は矢板銀行の頭取の所有地に限り、黒羽町、黒磯町等は県吏某の姻戚の買占地に限り、其他醜聞百出、洵(まこと)に耳にするに堪えざる者あり(カッコ内筆者)』

とある。栃木県書記官、県知事、警察警部帳等が主体となり地元の有力者と組んで遊郭を新規設置し、私腹を肥やそうとしているという内容。『黒磯は県吏某の姻戚の買占地に限り』と書かれており、先程の遊郭指定地の土地を確保し登記まで済ませている記事と内容がリンクしている。

寒川陽光(鼠骨)は、栃木県県庁みずからが率先して遊郭を増設して大いに利益を得ようとしていることを痛烈に批判したが、この記事が元で「官吏侮辱罪」となり重禁固15日の刑になってしまっている。

利益を得たい県と地元有力者の思惑もあっての遊郭開業、最初に「下野新聞」で見られる記事は、1903(明治36)年1月14日、西那須野楼娼妓小菊(21)に通い詰めていた黒磯駅勤務の男が、やはり小菊目当てに通っていた同じ黒磯駅勤務の同僚に嫉妬し、小菊と同僚を銃で撃ち自分も遊郭大門に身をもたれつつ銃口を喉に含み足で引き金を引いて自殺した、という壮絶なもの。

黒磯遊郭
場所はおおよそこのあたり。黒磯駅から徒歩10分ほど。駅前通りを歩くと黒磯市街を南北に走る旧国道4号にぶつかる。そのすぐ近くから東西に走るのが新地仲町通り。遊郭を表す「新地」の名前が残っている通りだ。その奥の方に遊郭はあった。

黒磯遊郭
「黒磯市誌」より。遊郭の位置が分かる図

黒磯遊郭
横断歩道がある交差点を中心としたエリアが遊郭だった。右側手前の道路が少し太くなっているところあたりからがそうだろうか。栃木県の遊廓設置規定では遊郭の道路は5間(約9m)以上なければならない、と定められており、遊郭跡地の道路は今でも不自然なほど広いまま残っていることが多い。

貸座敷(妓楼)は最大で4軒。『下野新聞』に出された遊郭の広告で分かっている範囲では以下の通り

1912(明治45)年 寳來楼、松風楼、高橋楼、瀧岡楼

1914(大正4)年 寳來楼、松風楼、高橋楼、荒川楼

1918(大正7)年 寳來楼、松風楼、高橋楼、第一井開楼

1921(大正10)年 寳來楼、松風楼、高橋楼、井開楼

1926(大正14)年 寳來楼、松岡楼、井開楼

1926年の「松岡楼」は「松風楼」の誤りだろうか。また、「井開楼」は同じく栃木県北部にある黒羽遊郭にもあり、経営者の苗字も同じことから黒羽から移って来た、もしくは支店かと思われる。

いつまで存続したかというと『栃木県統計書』によると1935(昭和10)年には貸座敷数が「2」であったが翌年1936(昭和11)年には「0」となっているので1936年前後に消滅したと考える。1940年の『下野新聞』にも既に黒磯遊郭は廃業しているという記事があり、統計の数値は正しいのだろう。

娼妓数も最大で23~24人程度で栃木県内の遊郭としては小規模のもので、昭和に入ると私娼の増加やカフエー等の新しい風俗遊びの台頭してくるので、その時代の波に飲まれてひっそりと消えて行ったのだろう。

黒磯遊郭

黒磯遊郭

黒磯遊郭

黒磯遊郭
交差点の南西の角にある赤い屋根や蔵、レンガの壁が非常に美しい建物。

黒磯遊郭
郵便受けも素敵。この建物こそが元妓楼、いや、元妓楼ではないだろうが遊郭経営者の子孫の方々が暮していたものと考える。

少なくとも寶来楼があった場所であることは確実である。

1970年代の住宅地図にはこの建物に寳來楼楼主と同じ苗字の名前が記載されている。加えて「宝経営事務所」という事務所を営んでおり、宝とは「寳(宝)來楼」の宝ではないだろうか。

黒磯遊郭

黒磯遊郭
屋根と蔵には「寳」の文字が残っている。

黒磯遊郭
蔦に覆われて分かりにくいがこちらの蔵にも「寳」。

黒磯遊郭
電柱に残る「新地」の文字。

黒磯遊郭
「寳」と「新地」とのツーショット。

黒磯遊郭
この建物の向かい側のお宅の前にこのような石碑があった。こちらの面には「道路修繕寄付芳名」と刻まれており、

黒磯遊郭
この面には「発起者」として7人の名前が刻まれており、このうち右4人は妓楼楼主である。残念ながら年代は分からなかったが、この石碑は遊郭関係者が中心となって遊郭の道路を修繕した記念なのである。

ここで得た推測や疑問が少しでも分かればと思い、程近い黒磯郷土館を訪ね

「この辺に遊郭があったとのことですが」

と係員さんに聞いてみたところ

「えーっ初耳です!私、関西の出なもんですから…」

ガビーン。遊郭探訪はここで終了とし、飯を食べることにした。

黒磯遊郭
寶来楼の宝繋がりで餃子の「たから」(亀と書いてたからと読む)に!と思ったら

黒磯遊郭
お休み。ガビーン。黒磯探訪を続けることにした。

黒磯遊郭
新地通り近辺には盛り場の名残りだろうか、スナック長屋をいくつか見ることが出来る。この真ん中を通り抜けて振り返ると…

黒磯遊郭
「終着駅」がある。関東の北の果て、まさに宇都宮線の終着駅黒磯の場末に流れ着いた自分に身が千切れるような切ない旅情を感じてしまった。ここに流れ着いたまま酔い潰れるのもいいかもしれない。

黒磯遊郭
丸大横丁のスナック看板。

黒磯遊郭
ひとつ脱落している物悲しさよ。

黒磯遊郭
丸大横丁の全貌。角が取れた窓枠とクレオパトラが素晴らし過ぎる。

黒磯遊郭
通り抜けにピアノが放置されていた。かわいそうに。

黒磯遊郭
通り抜けの先は駐車場。

黒磯遊郭
その隣にとても年季の入った家が。「荻野荘」と看板が出ていた。昔のアパートだろうか。

黒磯遊郭
ハイセンスなお店。

黒磯遊郭
生田絵梨花嬢。かわいかったのでつい撮ってしまった。

黒磯遊郭
東京以外にもあった三軒茶屋。

黒磯遊郭
黒磯市街から少し離れた場所にある「ホテル不夜城」跡。

黒磯遊郭
「フロントにて受付をして下さい」という看板と

黒磯遊郭
空室満室を示すパネル。

黒磯遊郭
案内図。丸いポッチが点滅して部屋の空室満室を案内していたのではないだろうか。

黒磯遊郭
フロント。

黒磯遊郭
鬱蒼とした草木が来る者を拒む。ホテルでもなく城でもなくちょんの間みたいな…。ひと部屋だけ失礼して中を見せてもらったが、ドアを開けた途端虫がボトボト落ちて来たのでヒイイイイと撤収した。

黒磯遊郭

黒磯遊郭
黒磯で食べそこなった餃子は宇都宮の「みんみん」にてようやくありついた。黒磯の仇を宇都宮で。

くろうして いそいそ食べる 餃子かな

なんちて。

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2020-06-30(Tue)

栃木県矢板市矢板遊郭跡地を歩く

栃木県の北部の矢板市に、かつて遊郭があった。

県内の遊郭の場所はもともと江戸時代から「飯盛旅籠」(エッチなことさせてくれる女郎さんがいる宿)があった宿場町にあることが多い。

そういった県内21箇所(後に16箇所に減)が1890年代(明治20年代)に県が定めた「貸座敷及娼妓取締規則」によりエッチな営業が出来る場所として指定されたからである。それらが後の遊郭となった。また、営業をするための様々な決まりも定められ、「飯盛旅籠」は「貸座敷」、「女郎」さんは「娼妓」と呼ばれるようになった。

矢板はまだその時点では指定されてはいなかった。矢板も「矢板宿」という宿場町であったがおそらくそれほど大きな街ではなく飯盛旅籠もなかった、またはあったとしても指定されるほど盛んではなかったと思われる。

しかし1899(明治32)年9月、栃木県令第60号「遊郭設置規定」により矢板を含む9箇所が「遊郭を造っていいよ」と追加された。これまで貸座敷など全くなかった健全な箇所もあり、何故いきなり指定されたのか分からず「風紀を乱す」として県知事を批判、規定を撤廃すべしと各地で反対運動が起こったが、結局はこの追加9箇所の内7箇所は遊郭が誕生している。

矢板の遊郭もその内のひとつ。「栃木県警察統計表」には県内の貸座敷や娼妓の数が記録されており、1900(明治32)年版に初めて矢板が登場している。貸座敷数は5であるが娼妓は0、翌1901(明治33)年には貸座敷数4、娼妓数18となっており、実質的な営業開始はこの年からであろう。

矢板遊郭
場所はおよそこのあたり。矢板駅から駅前通りをまっすぐ、徒歩10分ほどである。貸座敷(妓楼)は最大で4軒あった。確認出来た貸座敷と名前は以下の通り。

1911(明治44)年:坂田楼・松栄楼・旭楼・澤楼、
1915(大正4)年:坂田楼・松栄楼・旭楼・堺楼
1941(昭和16)年:坂田楼・松栄楼・中村楼

矢板遊郭
現場に到着。この駅前通りの両側あたりが遊郭エリアである。駅前通りは奥に写っている矢板中央高(サッカーが強い)前まで続いているが、当時は遊郭までで終わっていた。

矢板遊郭
1907(明治40)発行の栃木県営業便覧。画像上が南。駅前通り沿いの商店や遊郭の記載がある。

矢板遊郭

矢板遊郭
遊郭を思い起こさせられるものは何も残っていないが、通りの脇に稲荷神社があった。綺麗に保たれていることに感心する。遊郭に稲荷神社は付き物、と写真を撮ったり社殿や石碑などを見たりウロウロしていたら

「何か調査でもなさっているんですか?」

神社の隣の公園で犬の散歩をしていた綺麗なご婦人に声をかけられた。あ、怪しいもんじゃないよ、おいらベロってんだ…と出来るだけ不審者扱いされないよう出来るだけにこやかに

「ここに遊郭があったと聞いて調べているのです」

遊郭の四角いエリアを表すつもりで両手人差し指にてスッスッスッと空中に四角を描きながら答えると

「そうですよ。ここが遊郭です。昔は黒塀が残っていましたね」

「おお、そうですか!」

即答してもらえて歓喜。親切そうなお方でよかった。黒塀、見たかった…。

「この神社も女郎さん達のために造られたんですよ」

「おお、そうですか!いつぐらいまであったんですかね?」

「さあ~私の祖父の頃はあったようですが…」

僕は神社の境内で、ご婦人は公園の中で、境のフェンス越しに話すソーシャルディスタンス。頃合いを見計らってご婦人にお礼を言ってまた探索を続ける。

「石に名前が残っているのもありますよ」

矢板遊郭
と教えて貰ったので見つけたのが手水石の土台。

「大正15年 坂田楼内 マサ子」

と刻まれている。坂田楼は先ほど述べた4つの妓楼のうちのひとつ。当時の下野新聞には「娼妓の玉高の毎月多いのは坂田楼だ。それに娼妓の食い物の悪いのも一番だろう」などと書かれている。マサ子さんはどのようにして娼妓になったのだろうか。多くの娼妓のように家の貧困を救うために買われて来たのだろうか。どんな思いで寄進したのだろうか。

矢板遊郭

矢板遊郭
これは東日本大震災で破損し撤去されてしまったという玉垣。そういえば、1935(昭和10)年6月、無免許で車を運転した男が遊郭の右側の門柱に激突し真っ二つにしてしまい大騒ぎになったという記事が下野新聞にあった。門柱は太さ2寸角(60ミリ×60ミリ)、高さは1丈(約3メートル)、白河石で出来ていたとのこと。

矢板遊郭は県内でもそれほど大きな遊郭ではなく、当時の新聞にもあまり記事がなく、あっても「無一文でお遊びして警察に突き出された男の話」や「娼妓の持ち物を盗んで警察に突き出された話」など、矢板に限らずよく聞く話ぐらいしかない。

それでも太平洋戦争終戦の少し前まで存続していたようで、1941(昭和16)年には松栄楼、中村楼、坂田楼の3貸座敷の楼主と従業員20余名がお国の為に門前の溜池を埋めその周囲の空閑地を開墾して約1反5賦歩の立派な畑地を作り、それに馬鈴薯を蒔き付け増産と勤労に真撃あ敢闘をなした…という記事が残っている。、

また、1942(昭和17)年の「栃木県電話番号昭和17年10月1日現在」には坂田楼とその楼主名が載っている。

矢板遊郭
遊郭跡を離れてしばし街中を歩く。駅から出るとすぐにどーんと見えるのが「SHARP」のロゴ。かつて世界に誇った日本家電メーカーの勢いの名残りのような。

矢板遊郭
「カレン」。はきもののデパートというのがいい。

矢板遊郭
こんな雅なスナック看板が。

矢板遊郭

矢板遊郭
「カフエー」「社交飲食店」などの鑑札が残っているところも。

矢板遊郭
ほのぼのとした18禁マーク。パッと見エッチなお店関係かなと思うがパチンコ屋に貼られていたものである。

矢板遊郭
懐かしのごきぶりホイホイ。

矢板遊郭
汚れて破れて怖い字体になっている喫茶店ピノッキオ。

矢板遊郭
かつて矢板で最も栄えたという通りにある古めかしい店舗たち。瀬戸物の店「岸」。

矢板遊郭
手芸の店「まからんや」。

矢板遊郭
「金光堂時計舗」。物干し竿に洗濯ばさみも残っているのがポイント高い。

矢板遊郭
坪山履物店。看板建築に△△△を増強した感じが好き。

矢板遊郭
台湾料理店らしからぬ巨大なモニュメント。なんだこれと思わせるが、ここは「栃木実父殺し事件」として有名な事件に関わりがある「福田印刷所」があった場所である。

1968(昭和43)年、矢板市の中市営住宅に住んでいたA沢千代さんは実の父を絞殺した。千代さんは14才の頃から実父に強姦され続け5人の子供まで出産し(うち2人は死亡)、夫婦同然の生活を強いられていたのである。

「福田印刷所」は子供達を保育園に預けられるようになってから勤め出した千代さんの職場で、そこで7歳下の同僚と出逢い結婚を考える程の仲となった。しかしそれを知った父親は激怒し妨害、恋人に合わせないよう千代さんを監禁してしまう。千代さんは束縛から逃れるべく遂に父親を腰紐で絞殺した。

当時は「尊属殺人規定」といって、父親や母親、直系尊属の人間を殺すと通常の殺人より重い罪になっていた。しかし千代さんに同情し無償で千代さんの弁護人を引受けた親子2代の弁護士は、尊属殺人規定は違憲であると主張し千代さんを弁護、結果最高裁で認められ執行猶予付きの判決となった。

矢板遊郭
ここが千代さんと父親、子供達が住んでいた矢板市市営住宅。当時は平屋で千代さん達は4世帯が連なる長屋に住んでいた。行く時間が無かったのでグーグルストリートビュー。

家の貧困のため身を犠牲にした娼妓と通じる悲哀を感じつつ矢板を後にした。

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2020-06-28(Sun)

2020年6月29日で閉館する性の博物館『性神の館』を再訪する

栃木県宇都宮市徳次郎町にある「性神の館」。

性神の館
ここは日本と全世界の性文化・風俗を一堂に集めた楽しい性の殿堂(チケットの案内文のまま)。ここほどち○ことま○こで溢れた博物館はそうはないだろう。

性神の館
入口からして巨大ま○こが口を開け、

性神の館
太鼓橋の脇にはち○こが鎮座ドープネスしており初っ端からタマキン全力投球である。



僕は2年ほど前ここを訪ね、館長さんの面白トーク(隙あらば下ネタダジャレが飛んでくる)によるレクチャーを受け、大変感銘を受けたものだ。

しかしネットの噂によると6月末で閉館してしまうという…。悲しいことだができればもう一度観ておきたいと思い再訪した。

入口のま○こをくぐると受付。マスクをした館長さん(梅宮辰夫似…だと思う)が待ち受けていた。

「いらっしゃいませ。まずお聞かせ下さい。当館の事はどのようにお知りになりましたか?ご友人の紹介とかインターネットとか…」

初めにそんなことを聞かれた。既に閉館の話が広まっているか気にされているのだろうか。

「以前一度来たことがあるのです。ここを閉められるという話をネットで見たものですから」

と答えると

「そうなんですよ!」

地主が土地を売ってしまうので閉館すること、営業は6/29までということ、倉庫を50万ほどで借りたので展示物はひとまずそこに移すこと、でも改めて展示する場所は決まっていないこと…等の事情を教えてくれた。そして

「ようこそおいでくださいました。リピーター割引で100円引きいたします」

入館料1,000円のところを900円にしてくれて館長さんによる性神の館ツアーが始まった。

「お客様はどちら出身ですか?その場所によってご案内する内容が変わります!」

とのことなのでここ栃木出身であることを告げると

「そうですか!この入口のま○こは県内の馬頭にある『御前岩』(ごぜんいわ)というおま○こそっくりの岩を元に作っているんですよ!」

と言うので

「あっ!行ったことあります!」」

そうだったのか!と驚いてしまった。

御前岩
御前岩とはこのとおりぱっくり開いたま○こそっくりの天然岩で、栃木県那珂川町(旧馬頭町)を流れる武茂川にある。昔、ここを訪れた水戸黄門があまりのま○こぶりにビックリして「やばいから隠しとけ」と川の対岸に竹を植えさせたという奇岩である。

性神の館

御前岩
確かに入口のと似ている!ビラビラ具合と左に傾き具合が!



去年クソ暑い中見物しに行ったものであるが、自分が訪れた珍スポット達がはからずもこうして繋がることは驚きであり嬉しくもある。昔の元カノのま○こをひょんなところでまた見ることになったような…って全然違うか。

性神の館
序盤に見ることになる「金精大明神」。日光にある金精峠に祀られているち○こを模したもの。女帝孝謙天皇を己の巨根でメロメロにした怪僧道鏡。しかしなんだかんだで失脚し、下野国(栃木県)に左遷させられた。

栃木に下る途中、この峠を越えようとしたが、あまりの巨根のため重くて峠を越せずこの地で切り落としたとかいう伝説が残っている。

僕の地元栃木市にも孝謙天皇と道鏡の間に出来た皇子が落ち延びて住み着いた…という伝説がある。その家臣のひとりの名前が地名として残っている。そこには後に遊郭が出来た…というのはまた別のお話。

このち◯こ奉納大集合は道鏡の巨根伝説あやかりたい男性の信仰心の表れであり、「ち○この大チン列」と館長さん。

性神の館
これは愛知県小牧市の田縣神社で行われる豊年祭で実際に使われたもの。この男根型神輿を担ぐんだそうである。ち○こに対しては「種まき」の連想から豊作を願い、あと見たまんまで子孫繁栄を願いを込めるのでしょう、と館長さん。

館長さんは客の出身地に残るこういった性に関する伝説、信仰、風習、石仏、などを紹介してくれるのだ。

性神の館
お守り、縁起物、ちんまんグッズなど。

性神の館

性神の館

性神の館
日本のみならず海外のちんまんまで。

性神の館
これはインド・カジュラホの寺院にびっしり刻み込まれた男女交合像(ミトゥナ)のひとつを再現したもの。館長さんは現地に行き写真を撮りまくったという。何故神聖な寺院にこのようなまぐわい像があるのかというと、一説には女性の性的魅力を偉大なものとし、それに男が繋がることによりその偉大さにあやかるというタントリズムの思想が影響しているという。

性神の館

性神の館

性神の館
江戸時代から明治・大正時代の大人のおもちゃ、アダルトグッズ。

性神の館
こちらは性神の館の目玉、喜多川歌麿の原画。ここは春画についても大量の展示があり、体位四十八手のひとつひとつの春画も見ることが出来る。以前来た時(平成が終わる直前)は体位の絵のひとつを指し、

「これなんかは来年、皇太子殿下が絶対やることですよ。側位(即位)」

とか

「今の天皇陛下にも大変関わりのあるテーマですね。体位(退位)」

というオヤジギャグに大笑いしたものだが、今回も

「これは去年天皇陛下がやられてますね。側位(即位)」

また聞けて嬉しかった。さらに

「雅子、側位しようぜー、なんて今もやってるかもしれません」

雅子様までネタに加わっていた。

性神の館
館内のレクチャーがひととおり終わるとソープランドの待合室みたいな部屋に通されビデオ鑑賞で締めとなる。内容は真面目系と不真面目系の2択。前回の僕は不真面目系を選んだところ、

性神の館
「桃尻ナースの裏筋クリニック ナマで何度も注射して…」(五十嵐こずえ)

というバブル時代のAVだった。これはこれで良かったが、せっかく来たのだからここでしか観れないものを、と後悔したので

性神の館
今回は真面目系。先ほど出て来たカジュラホ寺院のビデオであった。館長さんが作ったのではなくてNHKかなんかの特番かな。

性神の館

性神の館
ビデオ鑑賞が終わると自由行動になる。撮影もOK。

性神の館
ふと壁に貼られた切り抜きに気付く。ここで初めて館長さんのお名前が大岡二朗さんであるということが判明。

出典が記載されてないため何の記事かは不明だが、前田武彦との対談。記事中に「3年前の50年」との記載があるので1978年のものだろう。

その中で性神の館はもともと「大晃」というドライブインの一角だったということ、館長さんは本業はお土産屋で、名物「日光羊羹」の次男坊だったこと、何か好きなことをやりたくて始めた…ということを語っている。

秘宝館と違って博物館と名乗ったり、まじめな文献や資料を揃えていることに関しては、

館長「私はどうしても明るくしようと思いましてね、性文化の先生方にも顧問になって頂いて、いろいろアドバイスを願っているんです」

前田「いわゆる見せ物になりますと、暗いムードになりますからね」

館長「ええ、私も見せ物はきらいなんです」

という話が印象的だった。だからこれでもかというぐらい明るく楽しいトークとキャラの館長さんなのだろう。

性神の館
出口付近にはアダルトグッズやち○こま○こお守りなどのお土産コーナーが。館長さんの奥様がこれまた面白いトークで紹介してくれる。

館長さんは、

「1975年の7月に始まったので、今年の7月までやれればちょうど45年になったんですが、あさって(6/29)までなので44年と11か月です…」

と寂しげであった。これだけ強烈なスポットが無くなるのは大変寂しい。ずっと残すべき価値がある。また再開されることを心待ちにしたい。

何個あるか分からないち○こま○こだけに、何性器にも渡って続いて欲しいものである。なんちて。

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