2020-07-03(Fri)

栃木県那須塩原市黒磯遊郭跡地を歩く

栃木県最北の市、那須塩原市。

市内の黒磯駅の近くにかつて遊郭があった。

黒磯の街は1886(明治19)年に東北本線が黒磯まで開通し、黒磯駅が開業してから急速に発展した。

そして1899(明治32)年9月、栃木県令60号「遊郭設置規定」により黒磯も遊郭を設置していいよ、という指定を受け、住民の反対もあったが1904(明治37)年より前には出来ていたようである。この年の5月に日露戦争中の戦捷をお祝いする提灯行列をした際、小学生達を引率した教員が何故か遊郭内をくまなく一周したことが発覚し、なんたる不埒で非常識な教員だ!と問題になった、という記録が残っている。

黒磯遊郭
場所はおおよそこのあたり。黒磯駅から徒歩10分ほど。駅前通りを歩くと黒磯市街を南北に走る旧国道4号にぶつかる。そのすぐ近くから東西に走るのが新地仲町通り。遊郭を表す「新地」の名前が残っている通りだ。その奥の方に遊郭はあった。

黒磯遊郭
「黒磯市誌」より。遊郭の位置が分かる図

黒磯遊郭
横断歩道がある交差点を中心としたエリアが遊郭だった。右側手前の道路が少し太くなっているところあたりからがそうだろうか。栃木県の遊廓設置規定では遊郭の道路は5間(約9m)以上なければならない、と定められており、遊郭跡地の道路は今でも不自然なほど広いまま残っていることが多い。

貸座敷(妓楼)は最大で4軒。分かっている範囲では以下の通り

1914(大正4)年 寳來楼、松風楼、高橋楼、荒川楼

1918(大正7)年 寳來楼、松風楼、高橋楼、第一井開楼

また、昭和の時代になると「荒井楼」という妓楼も出てくる。

黒磯遊郭

黒磯遊郭

黒磯遊郭

黒磯遊郭
交差点の南西の角にある赤い屋根や蔵、レンガの壁が非常に美しい建物。

黒磯遊郭
郵便受けも素敵。この建物こそが元妓楼、いや、元妓楼ではないだろうが遊郭経営者の子孫の方々が暮していたものと考える。

少なくとも寶来楼があった場所であることは確実である。

1970年代の住宅地図にはこの建物に寳來楼楼主と同じ苗字の名前が記載されている。加えて「宝経営事務所」という事務所を営んでおり、宝とは「寳(宝)來楼」の宝ではないだろうか。

黒磯遊郭

黒磯遊郭
屋根と蔵には「寶」の文字が残っている。

黒磯遊郭
蔦に覆われて分かりにくいがこちらの蔵にも「寶」。

黒磯遊郭
電柱に残る「新地」の文字。

黒磯遊郭
「寶」と「新地」とのツーショット。

黒磯遊郭
この建物の向かい側のお宅の前にこのような石碑があった。こちらの面には「道路修繕寄付芳名」と刻まれており、

黒磯遊郭
この面には「発起者」として7人の名前が刻まれており、このうち右4人は妓楼楼主である。残念ながら年代は分からなかったが、この石碑は遊郭関係者が中心となって遊郭の道路を修繕した記念なのである。

ここで得た推測や疑問が少しでも分かればと思い、程近い黒磯郷土館を訪ね

「この辺に遊郭があったとのことですが」

と係員さんに聞いてみたところ

「えーっ初耳です!私、関西の出なもんですから…」

ガビーン。遊郭探訪はここで終了とし、飯を食べることにした。

黒磯遊郭
寶来楼の宝繋がりで餃子の「たから」(亀と書いてたからと読む)に!と思ったら

黒磯遊郭
お休み。ガビーン。黒磯探訪を続けることにした。

黒磯遊郭
新地通り近辺には盛り場の名残りだろうか、スナック長屋をいくつか見ることが出来る。この真ん中を通り抜けて振り返ると…

黒磯遊郭
「終着駅」がある。関東の北の果て、まさに宇都宮線の終着駅黒磯の場末に流れ着いた自分に身が千切れるような切ない旅情を感じてしまった。ここに流れ着いたまま酔い潰れるのもいいかもしれない。

黒磯遊郭
丸大横丁のスナック看板。

黒磯遊郭
ひとつ脱落している物悲しさよ。

黒磯遊郭
丸大横丁の全貌。角が取れた窓枠とクレオパトラが素晴らし過ぎる。

黒磯遊郭
通り抜けにピアノが放置されていた。かわいそうに。

黒磯遊郭
通り抜けの先は駐車場。

黒磯遊郭
その隣にとても年季の入った家が。「荻野荘」と看板が出ていた。昔のアパートだろうか。

黒磯遊郭
ハイセンスなお店。

黒磯遊郭
生田絵梨花嬢。かわいかったのでつい撮ってしまった。

黒磯遊郭
東京以外にもあった三軒茶屋。

黒磯遊郭
黒磯市街から少し離れた場所にある「ホテル不夜城」跡。

黒磯遊郭
「フロントにて受付をして下さい」という看板と

黒磯遊郭
空室満室を示すパネル。

黒磯遊郭
案内図。丸いポッチが点滅して部屋の空室満室を案内していたのではないだろうか。

黒磯遊郭
フロント。

黒磯遊郭
鬱蒼とした草木が来る者を拒む。ホテルでもなく城でもなくちょんの間みたいな…。ひと部屋だけ失礼して中を見せてもらったが、ドアを開けた途端虫がボトボト落ちて来たのでヒイイイイと撤収した。

黒磯遊郭

黒磯遊郭
黒磯で食べそこなった餃子は宇都宮の「みんみん」にてようやくありついた。黒磯の仇を宇都宮で。

くろうして いそいそ食べる 餃子かな

なんちて。

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2020-06-30(Tue)

栃木県矢板市矢板遊郭跡地を歩く

栃木県の北部の矢板市に、かつて遊郭があった。

県内の遊郭の場所はもともと江戸時代から「飯盛旅籠」(エッチなことさせてくれる女郎さんがいる宿)があった宿場町にあることが多い。

そういった県内21箇所(後に16箇所に減)が1890年代(明治20年代)に県が定めた「貸座敷及娼妓取締規則」によりエッチな営業が出来る場所として指定されたからである。それらが後の遊郭となった。また、営業をするための様々な決まりも定められ、「飯盛旅籠」は「貸座敷」、「女郎」さんは「娼妓」と呼ばれるようになった。

矢板はまだその時点では指定されてはいなかった。矢板も「矢板宿」という宿場町であったがおそらくそれほど大きな街ではなく飯盛旅籠もなかった、またはあったとしても指定されるほど盛んではなかったと思われる。

しかし1899(明治32)年9月、栃木県令第60号「遊郭設置規定」により矢板を含む9箇所が「遊郭を造っていいよ」と追加された。これまで貸座敷など全くなかった健全な箇所もあり、何故いきなり指定されたのか分からず「風紀を乱す」として県知事を批判、規定を撤廃すべしと各地で反対運動が起こったが、結局はこの追加9箇所の内7箇所は遊郭が誕生している。

矢板の遊郭はその内のひとつとして1907(明治40)年ごろ出来たと考えられる。

矢板遊郭
場所はおよそこのあたり。矢板駅から駅前通りをまっすぐ、徒歩10分ほどである。貸座敷(妓楼)は最大で4軒あった。確認出来た貸座敷と名前は以下の通り。

1911(明治44)年:坂田楼・松栄楼・旭楼・澤楼、
1915(大正4)年:坂田楼・松栄楼・旭楼・堺楼
1941(昭和16)年:坂田楼・松栄楼・中村楼

矢板遊郭
現場に到着。この駅前通りの両側あたりが遊郭エリアである。駅前通りは奥に写っている矢板中央高(サッカーが強い)前まで続いているが、当時は遊郭までで終わっていた。

矢板遊郭
1907(明治40)発行の栃木県営業便覧。画像上が南。駅前通り沿いの商店や遊郭の記載がある。

矢板遊郭

矢板遊郭
遊郭を思い起こさせられるものは何も残っていないが、通りの脇に稲荷神社があった。綺麗に保たれていることに感心する。遊郭に稲荷神社は付き物、と写真を撮ったり社殿や石碑などを見たりウロウロしていたら

「何か調査でもなさっているんですか?」

神社の隣の公園で犬の散歩をしていた綺麗なご婦人に声をかけられた。あ、怪しいもんじゃないよ、おいらベロってんだ…と出来るだけ不審者扱いされないよう出来るだけにこやかに

「ここに遊郭があったと聞いて調べているのです」

遊郭の四角いエリアを表すつもりで両手人差し指にてスッスッスッと空中に四角を描きながら答えると

「そうですよ。ここが遊郭です。昔は黒塀が残っていましたね」

「おお、そうですか!」

即答してもらえて歓喜。親切そうなお方でよかった。黒塀、見たかった…。

「この神社も女郎さん達のために造られたんですよ」

「おお、そうですか!いつぐらいまであったんですかね?」

「さあ~私の祖父の頃はあったようですが…」

僕は神社の境内で、ご婦人は公園の中で、境のフェンス越しに話すソーシャルディスタンス。頃合いを見計らってご婦人にお礼を言ってまた探索を続ける。

「石に名前が残っているのもありますよ」

矢板遊郭
と教えて貰ったので見つけたのが手水石の土台。

「大正15年 坂田楼内 マサ子」

と刻まれている。坂田楼は先ほど述べた4つの妓楼のうちのひとつ。当時の下野新聞には「娼妓の玉高の毎月多いのは坂田楼だ。それに娼妓の食い物の悪いのも一番だろう」などと書かれている。マサ子さんはどのようにして娼妓になったのだろうか。多くの娼妓のように家の貧困を救うために買われて来たのだろうか。どんな思いで寄進したのだろうか。

矢板遊郭

矢板遊郭
これは東日本大震災で破損し撤去されてしまったという玉垣。そういえば、1935(昭和10)年6月、無免許で車を運転した男が遊郭の右側の門柱に激突し真っ二つにしてしまい大騒ぎになったという記事が下野新聞にあった。門柱は太さ2寸角(60ミリ×60ミリ)、高さは1丈(約3メートル)、白河石で出来ていたとのこと。

矢板遊郭
遊郭跡を離れてしばし街中を歩く。駅から出るとすぐにどーんと見えるのが「SHARP」のロゴ。かつて世界に誇った日本家電メーカーの勢いの名残りのような。

矢板遊郭
「カレン」。はきもののデパートというのがいい。

矢板遊郭
こんな雅なスナック看板が。

矢板遊郭

矢板遊郭
「カフエー」「社交飲食店」などの鑑札が残っているところも。

矢板遊郭
ほのぼのとした18禁マーク。パッと見エッチなお店関係かなと思うがパチンコ屋に貼られていたものである。

矢板遊郭
懐かしのごきぶりホイホイ。

矢板遊郭
汚れて破れて怖い字体になっている喫茶店ピノッキオ。

矢板遊郭
かつて矢板で最も栄えたという通りにある古めかしい店舗たち。瀬戸物の店「岸」。

矢板遊郭
手芸の店「まからんや」。

矢板遊郭
「金光堂時計舗」。物干し竿に洗濯ばさみも残っているのがポイント高い。

矢板遊郭
坪山履物店。看板建築に△△△を増強した感じが好き。

矢板遊郭
台湾料理店らしからぬ巨大なモニュメント。なんだこれと思わせるが、ここは「栃木実父殺し事件」として有名な事件に関わりがある「福田印刷所」があった場所である。

1968(昭和43)年、矢板市の中市営住宅に住んでいたA沢千代さんは実の父を絞殺した。千代さんは14才の頃から実父に強姦され続け5人の子供まで出産し(うち2人は死亡)、夫婦同然の生活を強いられていたのである。

「福田印刷所」は子供達を保育園に預けられるようになってから勤め出した千代さんの職場で、そこで7歳下の同僚と出逢い結婚を考える程の仲となった。しかしそれを知った父親は激怒し妨害、恋人に合わせないよう千代さんを監禁してしまう。千代さんは束縛から逃れるべく遂に父親を腰紐で絞殺した。

当時は「尊属殺人規定」といって、父親や母親、直系尊属の人間を殺すと通常の殺人より重い罪になっていた。しかし千代さんに同情し無償で千代さんの弁護人を引受けた親子2代の弁護士は、尊属殺人規定は違憲であると主張し千代さんを弁護、結果最高裁で認められ執行猶予付きの判決となった。

矢板遊郭
ここが千代さんと父親、子供達が住んでいた矢板市市営住宅。当時は平屋で千代さん達は4世帯が連なる長屋に住んでいた。行く時間が無かったのでグーグルストリートビュー。

家の貧困のため身を犠牲にした娼妓と通じる悲哀を感じつつ矢板を後にした。

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2020-06-28(Sun)

2020年6月29日で閉館する性の博物館『性神の館』を再訪する

栃木県宇都宮市徳次郎町にある「性神の館」。

性神の館
ここは日本と全世界の性文化・風俗を一堂に集めた楽しい性の殿堂(チケットの案内文のまま)。ここほどち○ことま○こで溢れた博物館はそうはないだろう。

性神の館
入口からして巨大ま○こが口を開け、

性神の館
太鼓橋の脇にはち○こが鎮座ドープネスしており初っ端からタマキン全力投球である。



僕は2年ほど前ここを訪ね、館長さんの面白トーク(隙あらば下ネタダジャレが飛んでくる)によるレクチャーを受け、大変感銘を受けたものだ。

しかしネットの噂によると6月末で閉館してしまうという…。悲しいことだができればもう一度観ておきたいと思い再訪した。

入口のま○こをくぐると受付。マスクをした館長さん(梅宮辰夫似…だと思う)が待ち受けていた。

「いらっしゃいませ。まずお聞かせ下さい。当館の事はどのようにお知りになりましたか?ご友人の紹介とかインターネットとか…」

初めにそんなことを聞かれた。既に閉館の話が広まっているか気にされているのだろうか。

「以前一度来たことがあるのです。ここを閉められるという話をネットで見たものですから」

と答えると

「そうなんですよ!」

地主が土地を売ってしまうので閉館すること、営業は6/29までということ、倉庫を50万ほどで借りたので展示物はひとまずそこに移すこと、でも改めて展示する場所は決まっていないこと…等の事情を教えてくれた。そして

「ようこそおいでくださいました。リピーター割引で100円引きいたします」

入館料1,000円のところを900円にしてくれて館長さんによる性神の館ツアーが始まった。

「お客様はどちら出身ですか?その場所によってご案内する内容が変わります!」

とのことなのでここ栃木出身であることを告げると

「そうですか!この入口のま○こは県内の馬頭にある『御前岩』(ごぜんいわ)というおま○こそっくりの岩を元に作っているんですよ!」

と言うので

「あっ!行ったことあります!」」

そうだったのか!と驚いてしまった。

御前岩
御前岩とはこのとおりぱっくり開いたま○こそっくりの天然岩で、栃木県那珂川町(旧馬頭町)を流れる武茂川にある。昔、ここを訪れた水戸黄門があまりのま○こぶりにビックリして「やばいから隠しとけ」と川の対岸に竹を植えさせたという奇岩である。

性神の館

御前岩
確かに入口のと似ている!ビラビラ具合と左に傾き具合が!



去年クソ暑い中見物しに行ったものであるが、自分が訪れた珍スポット達がはからずもこうして繋がることは驚きであり嬉しくもある。昔の元カノのま○こをひょんなところでまた見ることになったような…って全然違うか。

性神の館
序盤に見ることになる「金精大明神」。日光にある金精峠に祀られているち○こを模したもの。女帝孝謙天皇を己の巨根でメロメロにした怪僧道鏡。しかしなんだかんだで失脚し、下野国(栃木県)に左遷させられた。

栃木に下る途中、この峠を越えようとしたが、あまりの巨根のため重くて峠を越せずこの地で切り落としたとかいう伝説が残っている。

僕の地元栃木市にも孝謙天皇と道鏡の間に出来た皇子が落ち延びて住み着いた…という伝説がある。その家臣のひとりの名前が地名として残っている。そこには後に遊郭が出来た…というのはまた別のお話。

このち◯こ奉納大集合は道鏡の巨根伝説あやかりたい男性の信仰心の表れであり、「ち○この大チン列」と館長さん。

性神の館
これは愛知県小牧市の田縣神社で行われる豊年祭で実際に使われたもの。この男根型神輿を担ぐんだそうである。ち○こに対しては「種まき」の連想から豊作を願い、あと見たまんまで子孫繁栄を願いを込めるのでしょう、と館長さん。

館長さんは客の出身地に残るこういった性に関する伝説、信仰、風習、石仏、などを紹介してくれるのだ。

性神の館
お守り、縁起物、ちんまんグッズなど。

性神の館

性神の館

性神の館
日本のみならず海外のちんまんまで。

性神の館
これはインド・カジュラホの寺院にびっしり刻み込まれた男女交合像(ミトゥナ)のひとつを再現したもの。館長さんは現地に行き写真を撮りまくったという。何故神聖な寺院にこのようなまぐわい像があるのかというと、一説には女性の性的魅力を偉大なものとし、それに男が繋がることによりその偉大さにあやかるというタントリズムの思想が影響しているという。

性神の館

性神の館

性神の館
江戸時代から明治・大正時代の大人のおもちゃ、アダルトグッズ。

性神の館
こちらは性神の館の目玉、喜多川歌麿の原画。ここは春画についても大量の展示があり、体位四十八手のひとつひとつの春画も見ることが出来る。以前来た時(平成が終わる直前)は体位の絵のひとつを指し、

「これなんかは来年、皇太子殿下が絶対やることですよ。側位(即位)」

とか

「今の天皇陛下にも大変関わりのあるテーマですね。体位(退位)」

というオヤジギャグに大笑いしたものだが、今回も

「これは去年天皇陛下がやられてますね。側位(即位)」

また聞けて嬉しかった。さらに

「雅子、側位しようぜー、なんて今もやってるかもしれません」

雅子様までネタに加わっていた。

性神の館
館内のレクチャーがひととおり終わるとソープランドの待合室みたいな部屋に通されビデオ鑑賞で締めとなる。内容は真面目系と不真面目系の2択。前回の僕は不真面目系を選んだところ、

性神の館
「桃尻ナースの裏筋クリニック ナマで何度も注射して…」(五十嵐こずえ)

というバブル時代のAVだった。これはこれで良かったが、せっかく来たのだからここでしか観れないものを、と後悔したので

性神の館
今回は真面目系。先ほど出て来たカジュラホ寺院のビデオであった。館長さんが作ったのではなくてNHKかなんかの特番かな。

性神の館

性神の館
ビデオ鑑賞が終わると自由行動になる。撮影もOK。

性神の館
ふと壁に貼られた切り抜きに気付く。ここで初めて館長さんのお名前が大岡二朗さんであるということが判明。

出典が記載されてないため何の記事かは不明だが、前田武彦との対談。記事中に「3年前の50年」との記載があるので1978年のものだろう。

その中で性神の館はもともと「大晃」というドライブインの一角だったということ、館長さんは本業はお土産屋で、名物「日光羊羹」の次男坊だったこと、何か好きなことをやりたくて始めた…ということを語っている。

秘宝館と違って博物館と名乗ったり、まじめな文献や資料を揃えていることに関しては、

館長「私はどうしても明るくしようと思いましてね、性文化の先生方にも顧問になって頂いて、いろいろアドバイスを願っているんです」

前田「いわゆる見せ物になりますと、暗いムードになりますからね」

館長「ええ、私も見せ物はきらいなんです」

という話が印象的だった。だからこれでもかというぐらい明るく楽しいトークとキャラの館長さんなのだろう。

性神の館
出口付近にはアダルトグッズやち○こま○こお守りなどのお土産コーナーが。館長さんの奥様がこれまた面白いトークで紹介してくれる。

館長さんは、

「1975年の7月に始まったので、今年の7月までやれればちょうど45年になったんですが、あさって(6/29)までなので44年と11か月です…」

と寂しげであった。これだけ強烈なスポットが無くなるのは大変寂しい。ずっと残すべき価値がある。また再開されることを心待ちにしたい。

何個あるか分からないち○こま○こだけに、何性器にも渡って続いて欲しいものである。なんちて。

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2020-04-26(Sun)

栃木県鹿沼市五軒町遊郭跡地を歩く。

栃木県の真ん中より少し西にある鹿沼市。

戦国時代は壬生氏という大名が築いた鹿沼城の城下町だったが、壬生氏が滅亡しお城が廃城になり、江戸時代以降は日光例幣使街道が整備され、宿場町として発展した。

鹿沼にはかつて遊郭があり、その名残を探しながら街の中を歩いてみた。

鹿沼
まず、ここが例幣使街道。この石橋町付近を中心に宿が多く立ち並び、その中に飯盛女(女郎さん)を置いた飯盛旅籠(貸座敷、妓楼、女郎屋とほぼ同義)も存在していた。それらが後の遊郭のルーツとなる。


場所はこのあたり。

まだ遊郭が出来る前、1899(明治32)年5月6日の「下野新聞」には、石橋町に貸座敷が7楼、娼妓(女郎さん)は60余名いると記載されている。妓楼名は小林楼を筆頭とし、他、清水楼、竹澤楼、斎藤楼、柏木楼、新藤楼、東楼の名前が記載されている。

ちょっと横道にそれるが1907(明治40)年11月1日の「下野新聞」には面白い記事がある。

若い頃柏木楼に養子となり女郎屋の亭主になった高橋元四郎という方がいる。

この方は後に国会議員になるのだが、県会議員になった時、貸座敷を奥さんに譲ろうとし「貸座敷営業相続願」という類のない願書を県庁に出したところ「貸座敷の営業に相続権なるものを適用するに非ず」と突っ返されてしまった。そこでいったん廃業し改めて奥さんが営業を願い出て許可されてホッと胸を撫で下ろしたという。この当時もさすがに風俗店主が議員というのはまずかったのだろうか。そしていったん廃業してまた奥さんが営業願を出せばいいよ、というユルさも当時の雰囲気が伝わってくる。

鹿沼
横道にそれたついでにもうひとつ、石橋町付近の例幣使街道から横道にそれると花街だったエリアに入る。

鹿沼

鹿沼

鹿沼
画像はそれぞれ当時からの料亭「喜楽」(閉業)、「梅月」、「鳥長」。検番もこのあたりにあった。梅月と鳥長の通りは「出世街道」と呼ばれ、一旗揚げてここで飲むのが憧れだったという。

「喜楽」の歪みながらも必死に残っている感、「梅月」の塀の穴から伸びている木や「かばやき」の看板がとてもいい味を出している。

遊郭はその直後1908(明治41年)に出来た。街中に堂々と妓楼があるのは風紀上よくないということで、現在の下田町2丁目に遊郭を建設し、上記の妓楼の内齋藤楼、東楼を除く5軒が移転したことから「五軒町遊郭」と呼ばれた。はじめは奈佐原からも1軒加わる予定だったので、実現していれば六軒町になっていたかも知れなかったという。


場所はこのあたり。

ちなみに奈佐原は鹿沼からほど近い宿場町。鹿沼と同様に飯盛旅籠由来の貸座敷があったが、最終的には遊郭指定場所からは除外され消滅している。

鹿沼
これが遊郭の見取り図。(「かぬま郷土史散歩」柳田芳男著より)

鹿沼
こちらは松井天山による鳥瞰図「栃木県都賀郡鹿沼町実景」に描かれている大正時代の五軒町遊郭。

遊郭が一番栄えたのは大正時代の関東大震災前だと言われている。お盆になると遊郭中央の広場に櫓を建て盆踊り大会が行われた。近隣から多数の人が訪れ、藝妓や娼妓達も入り乱れて踊り狂い大盛り上がりだったという。踊りが終わると遊郭の東縁にある木島用水の川止めをして魚を捕っていた。木島用水は今でも残っている。ちなみに自分が訪ねた時は全く水がなく干上がっていた。

やがて昭和の世になると緊縮の時代となり、日中戦争が始まるとメインの客層であった若い男性達は徴兵され、「贅沢は敵だ」という風潮になり遊郭は寂れていった。遂に終戦1年前の1944年(昭和19)年、日本医療団県支部が遊郭総坪700坪を27万円で買い取り、病室及び医師・職員・看護師の宿舎を併設した診療所になってしまい、遊郭としての幕を閉じた。

遊郭がなくなってからは大門があった通りが東に延びて郭を南北に分断する形になり、また、通りも広がり面影はほとんど残っていない。参考文献によると大門は道路改修で移動し、下田町1丁目の某運送会社の門柱となっている、と記されていたが現在当該場所にその運送会社はなかった。

鹿沼
わずかな面影を残すものその1。この建物は現在はゲストハウスになっているが、かつては「竹澤旅館」(閉業)であった。5軒の妓楼のうちの「竹澤楼」が旅館に転業したものである。もちろん見た通り遊郭時代の建物ではない。

一方、明治時代の竹澤楼の電話番号は「62」だった。そして竹澤旅館の電話番号は「0289-62-2062」で、下2桁が一致する。これはずっと受け継がれてきた電話番号の名残りではないだろうか。

鹿沼
面影その2。ゲストハウス付近の電柱を見ると「新地」と書かれているものが何本か残っている。「新地」とは新しく切り開らかれたエリアのことで、新たに作られた遊郭と同義語である。これらの電柱がある区域がほぼ遊郭のエリアだったと見て良いだろう。

鹿沼
面影その3。見取り図にも出ている「椿森稲荷」。1867(慶応3)年中田町の菊地平内さんという方のお屋敷に創建され、1909(明治42)年に遊郭内に遷座。戦後、旧竹澤旅館から程近い小林医院の横に移されている。ちゃんと椿の花が咲いているのがエモい。

鹿沼
敷地の奥に遷座記念碑がある。裏面を読むと「金20円 各楼内働一同」と記載されており5軒の妓楼の名残りを見ることが出来る。また、「灯籠 検番」「手洗石 藝妓」なども刻まれていて、花街の名残りもあった。残念ながら検番が献じた灯籠や芸者さん達が献じた手洗石は残っていなかった。

鹿沼
面影その4。五軒町遊郭の近くにあった「冨士川」。1908(明治41)年創業の老舗蕎麦屋さんで、

鹿沼
さきほどの鳥瞰図にも遊郭のそばに描かれている。

「冨士川」はもともと古物商だったが、遊郭が出来てからは旦那衆に蕎麦の出前を始めたところ評判となり蕎麦屋が本業になっていったという。

鹿沼
ここで鹿沼ご当地グルメ「ニラ蕎麦」を食べた。ニラがみずみずしく、香りが豊かで美味しくて満足。

鹿沼
遊郭跡地を離れしばし散策。時折目につく古い建物たち。これは門がユニークで一部がバス停になっている元材木店。

鹿沼
鹿沼
掲示されたままの昔の商工案内図。地元の人ならこれを眺めながらかつての街並み、風景を思い起こせるのだろう。「あなたとの出逢い ブティック&コーヒ マシュポン」に行ってみたい。

鹿沼
向い側にあったお寿司屋さん。今もやってるのだろうか。

鹿沼
開化丼食べたい。

鹿沼
あまや食堂。

鹿沼
喫茶店。

鹿沼
例幣使街道沿いの立派な旧家。

鹿沼
これは遊郭エリア内にあった建物。ちょっと古い建物を見ただけで妓楼かと思ってしまう。

鹿沼
みごとにシャッターだらけの「銀座通り」。日曜日だったので定休日のお店が多かったのだろうが、空き店舗も目立つ。

鹿沼
「武器屋」って感じのお店。カッコイイ。

鹿沼
あまりヤングな感じがしない鹿沼ヤングボウル。

鹿沼
例幣使街道を北上すると「千手山公園」がある。アーチがイカス。

鹿沼

鹿沼

ここは小さな観覧車やミニ機関車などがあるこぢんまりとした遊園地で、乗り賃なんと1回50円。

鹿沼
観覧車から鹿沼の街を見降ろす。桜がちょうどいい感じ。

鹿沼
アーチに見送られて千手山公園を後にする。

鹿沼
「川上澄生美術館」。川上澄生は旧宇都宮中学(現宇都宮高)や宇都宮女子高で教鞭を執っていた栃木県にゆかりのある版画家。代表作「初夏の風」は、棟方志功に版画の道へ進む決意をさせるきっかけとなったという。

この美術館は川上澄生の教え子であり地元の豪商であった長谷川勝三郎が収集した作品約2千点が収蔵されている。

鹿沼

鹿沼
ここで「風景の川上澄生」という図録を買う。宇都宮遊郭(新地)の作品が3点掲載されているのだ。塔のようなものが描かれているが

宇都宮遊郭
これは時計台が有名だった「小松楼」という妓楼である。

本当は実物を見たかったのだが、いつも展示されている作品ではないので残念だった。図録を買ったら展示会のポスターを貰ってしまった。

僕は栃木県出身であるが、鹿沼には全く用がなかったので一度も訪れたことがなかった。しかしこうして鹿沼のことを調べてみると行きたいところ、見たいもの、確かめたいものが沢山出て来る魅力的な街であった。

また、市全体も自分たちの歴史を大切に守り、消えないように努力している姿勢が感じられるような雰囲気だった。

参考文献

「かぬま郷土史散歩」柳田芳男
「鹿沼市史」鹿沼市

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2020-03-29(Sun)

xiangyu『Party Hardy』下北沢THREE 2020.03.26

久しぶりのxianguちゃんライブ。

この時期に行っていいものかどうか迷うところであるがアーティスト側も熟考した上での出演であるはずなので応援したい。

xiangyu
見せブラがおしゃれである。あと指先にカニの爪っぽい赤い何かが。

xiangyu
xiangyuでカニと言えば「プーパッポンカリー」である。そういえばライブ前に近くの無印良品でレトルトカレーが売っているので買った。おいしいのだ。


ライブでももちろん披露。デビュー曲にして今まで一度もセットリストから外れたことがない(たぶん)。


MVをはじめて観た時のインパクトが忘れられない。そしてそれ以来、とても早いペースでどんどんスゴイ曲がリリースされ飽きさせない。

ライブMCではやはりコロナの話題となる。

「最近コロナの影響で買占めとかパニックになってませんか?パニック起したよね?」」

とひとりひとりに聞いて回る。 ひとりのおっさんが

「ワニワニパニック」

と答えて滑っていた。100日後死にたい。

「パニックになるとヒジをぶつけませんか~?ぶつけますよね!」

と歌ったのが「ヒジのビリビリ」。


シンゲリというジャンルの曲でとにかく速い。うしろに映る映像も電気ビリビリ感ある。


最新デジタルリリース曲「home」。部屋探しのこだわりを綴りつつも結局は屋根と塀があればいいかー、というのが彼女らしい。


これは未だに音源化されていない真の最新曲。「B.B.I.I.S.P.P.」寝落ちしてしまって体はバキバキだし喉イガイガ、目はシパシパ出しだし顔パンパン、という内容。寝落ちから覚めた時のアンニュイな取り返しつかなさとアンニュイな音がよく合っている。個人的にはここ最近で一番好き。


最後は定番のこの曲。「風呂に入らず寝ちまった」

手洗いにうがい、出来るだけ清潔にしなければ危険になってしまったこのご時世。でもまた風呂入らないまま寝落ちしてもテヘペロで済ませられる、そして普通にライブを観れる世の中に戻って欲しい。


このライブの翌日、「home」のMVが公開された。xiangyuちゃんが一切出ていないのに素晴らしく濃くて変で何度でも観てしまい、「プーパッポンカリー」MV以来の不思議なインパクトがある。

赤鬼もしくはカニみたいな2人はhomeにちなんでヤドカリなんだそうだ。xiangyuちゃんが指先にしてた赤いやつはこの伏線だったのか…。

プーパッポンカリーの次はヤドカリー。なんちて。

【セットリスト】

1.Go Mistake
2.ピアノダンパー激似しめ鯖
3.プーパッポンカリー
4.菌根菌
5.ヒジのビリビリ
6.秒でピック白
7.home
8.B.B.I.I.S.P.P.
9.風呂に入らず寝ちまった

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