栃木県東部にあり茨城県と接する那須烏山市の中心部烏山は那須氏が築いた烏山城の城下町であり、また煙草や和紙の産地、街のそばを流れる那珂川水運の中心地として栄えた。
かつてそこに「烏山旭遊郭」と名付けられ、通称「新地」と呼ばれた遊郭があった。遊郭に関する資料や現地を歩いてみたりして当時の面影を探ってみることにする。

「烏山旭遊廓」の絵葉書(筆者所有)。大正時代のものか。
1.烏山旭遊郭の場所

遊郭の場所は烏山市街から東南に離れた場所に造られた。地図上の地形を表す影から分かるが、烏山は市街の東を流れる那珂川の河岸段丘にあり、遊郭はその崖っぷちにあった。遊郭から外に出る事が禁じられていた娼妓を管理するには都合のいい地形だったろう。

大正時代の地図(『烏山町史』より転載。遊郭の南に「福川庭園」とあるがこれは遊郭内貸座敷のひとつ福川楼を経営していたI川家別邸の庭園であろう。

鳥瞰図『栃木県烏山町真景』(松井天山著)にも5軒の貸座敷の他、遊郭事務所、料理店なども描かれている(画像は福田川Facebookより転載)。
2.遊郭のルーツ「新場旅籠屋」という女郎屋
栃木県内の遊郭は、江戸時代の宿場町にあった飯盛旅籠(旅人のお世話をするという建前で「飯盛女」と呼ばれる売春婦を置く女郎屋)がルーツになっていることが多い。明治時代になってから「売春店が街中にあるのは風紀上よくない」という理由で町外れの指定された土地に移転する。これが遊郭である。
しかし『忘れられた郷土史 烏山旭遊廓』(大森茂宏著)』によれば、烏山にはもともと飯盛旅籠はなく、正式にお役所に届出て開店した売春営業店は1870(明治3)年の名目上「新場旅籠屋」と呼ばれる女郎屋が開業したのが遊郭のルーツだとされる。軒数は増減するが1871(明治4)年には13軒あったという。

女郎屋が置かれたのは主に金井町で、現在の烏山駅すぐそばであるが烏山市街地としては南の端っこであった。後年の遊郭のように門や塀で囲んで区画されていたわけではないが、ゆるい意味での遊郭の意識はあったのかもしれない。
3.遊郭移転まで
栃木県では1899(明治32)年『遊廓設置規定』が発布され、県内25ヶ所の遊郭設置指定地が定められた。そのうち烏山は「烏山町東裏」という地名が指定地になり、貸座敷(この頃の女郎屋の公式名称)は遊郭内での営業に限られることになった。
当時の『下野新聞』によれば烏山では遊廓設置規定発布以前から遊郭地をどこにするか町役場派と貸座敷業者派で対立しており、町役場派は東裏、貸座敷業者派は高峰という場所を主張していた。高峰は東裏よりずっと街から外れた場所だが貸座敷業者側にはロケーション以外にも何か思惑があったと思われる。
遊廓設置規定により指定地は東裏に決まり町役場派の意見が通った形となったが、じゃあ東裏のどこにするか、でまた紛糾し、町役場側は自分達が既に買い占めてある土地を遊郭にして貸座敷業者に貸して賃料を取りたい思惑があり、貸座敷業者派も自分たち側の人々が所有する土地を遊郭にして町役場側が用意した場所なんかには移転したくないと両派とも一歩も譲らなかったという。
結局どう話がまとまったのかは不明だが『忘れられた郷土史 烏山旭遊廓』によると新場旅籠屋「福佐屋」を経営していたY田家が元烏山藩操練所跡地を入手し、そこが指定地となった。Y田家は土地を各貸座敷業者に提供し、遊郭への移転準備が始まった。。
4.遊郭の開業
『忘れられた郷土史 烏山旭遊廓』(大森茂宏著)』によれば、
『烏山旭遊郭として一ヶ所に集団移転して営業を始めたのは、種々の資料や聞き書きなどから推定して明治34年頃かと思われる』
と記されているが、この営業開始年には疑問が残る。
当時の『下野新聞』を調べてみると1902(明治35)年の「烏山町紅筆便り」という記事には
『貸座敷移転地の工事は着々歩を進め昨今外濠の工事中に候』
とあり明治34年どころか35年でもまだ工事をしているし、
1908(明治41)年の「貸座敷移転」という記事には
『那須郡烏山の貸座敷業福川楼を始めとしは先月中迄(筆者注:1月)に金井町東裏の新敷地に引移り』
と記されており、また同年の別の「烏山雑信」という記事には
『貸座敷業者が新敷地へ移転したのは本年1月中で』
とあり、これも同年の『烏山便り』という記事にも
『花柳界遊廓は3月末日迄でに全部の移転を了し我れ劣らじと何れも盛んに営業を開始せり』
とあるので一部先行して遊廓内での営業が始まっていた可能性もあるが、遊郭移転がすべて完了したのは1908(明治41)年3月末ではないだろうか。ちなみにこの年月日は栃木県が定めた遊郭移転猶予期間の最終期限日であった。
なので遊郭のグランドオープンは1908(明治41)年4月と考える。
遊郭移転直前の烏山にあった貸座敷は5軒で、そのうち福川楼は新築家屋に8千円もの大金をかけて大得意、一方ようやく新築したのは福伊勢楼で、浪花楼と福石楼は旧家屋を移すのみに留まった。最後の1軒福吉楼は主人が病死してから経営が悪化し移転費用が捻出出来ず廃業したので遊郭へ移転したのは4軒となった。
土地を提供したY田家の福佐屋の名前はない。いつ店がなくなったのかは不明だが、遊郭移転後に経営不振となった福石楼を買い取り福佐楼を開店している。また、浪花楼も後に福川楼の支店となり福二楼となった。

『栃木県烏山町真景』にはもう1軒、福山楼が描かれている。1918(大正7)年の『下野新聞』に掲載されている烏山遊郭の広告には福山楼の名はなく4軒のみなので、おそらくそれ以降に開店したと思われる。遊郭内は最大5軒の貸座敷があった。
5.遊郭の賑わい
遊郭が出来た当初は道路の便がよくなく、遊郭に直結する道路を新設したところ大変栄え、関東一円に烏山旭遊郭の名が広まって行ったという。『忘れられた郷土史 烏山旭遊廓』によると
『店の構えや遊女の張り店等の工夫が他所と違う』
ことが栄えた理由のひとつとして挙げられている。張り店(張見世)とは娼妓が店頭の格子の内側に並び、客に自分の姿を見せることである。烏山では張見世を行なっていたのだろうか。1930(昭和5)年出版の『全国遊廓案内』では陰店を張る(張見世の反対で娼妓を表に出さない)と書かれている。

新設道路と直結する遊郭入口。(『忘れられた郷土史 烏山旭遊廓』より転載)。大門も写っている。現在の川口市の業者に頼んで作らせた鉄製の赤門で、左右には
春入翠帷花有色
風來繍閣玉生香
という対聯(漢詩)が刻まれており、宇都宮遊郭の大門の対聯と同じであった。この写真には遊興客以外の人達でごった返しているが、町の祭礼余興や花見、盆踊り大会など町のイベントの会場として利用されることもあった。

Y田家が経営していた福佐楼(『烏山旭遊廓 烏山に於ける公娼の起源と変遷』澤村儔著より転載)。
旭遊郭に移転してからは廓内の店名には必ず「福」の字を頭につけるようになっている。
これは遊郭になる土地を提供したY田家の先祖が宇都宮の福田屋にゆかりがあり、前述の通り烏山に初めて新場旅籠屋として女郎屋の許可を取り営業を始めたことや、遊郭移転の際、Y田家自身の所有地を同業者に提供し烏山旭遊郭として発足したり、Y田家と何か関係があって同業者となったり、その同業者の縁故者や店に永年勤めて功労があったものに分店させるとかで、福の字を頭につけた店名で貸座敷、飲食店等を経営するという風になっていた。
この人達を「福仲間」と呼んで堅い結束があったという。そしてY田家のご隠居さんを「福隠居」と呼び、集まりの際は必ず上座に据え平常でも尊敬の念を絶やさなかったという。

遊郭の娼妓たち(『烏山旭遊廓 烏山に於ける公娼の起源と変遷』より転載)。
烏山にはどのくらいの娼妓が所属していたか、1882(明治15)年から1906(明治39)年までは『栃木県統計書』『栃木県警察統計表』で見ることが出来、1898(明治31)年の70名をピークに徐々に減っていく傾向がみられ、1913(大正2)年の『下野新聞』には51名との記事がある。栃木県内としては抜群に大きかった県都宇都宮の遊郭(亀廓)は別格として、それに続く堀米(現佐野市)、福居(現足利市)、合戦場(現栃木市)、大田原、等の遊郭と並ぶ程の娼妓数の多さだった。
また、明治34年の『下野新聞』には娼妓は大抵現新潟県柏崎市出身が多く、浪花楼だけは関東出身が多かったと書かれている。
遊郭には見番もあり芸妓が数名いたようで、お客に呼ばれた半玉(年少の芸妓)が帰り道迷子になって泣いているところを警察に保護された、などという記事も残っている。
当時の『下野新聞』には遊郭での事件やゴシップ記事は良いネタだったのか沢山見ることが出来る。金持ちの男が娼妓を身請けした話、娼妓にのめりすぎて田畑や財産を売り払ってスッカラカンになってしまった男の話、盗んだ金で娼妓買いした男の話、遊郭から脱走したが捕まってしまった娼妓の話、客と恋仲になったが客の遊興費がかさんで首が回らなくなり無理心中した娼妓の話…烏山に限ったことではないがだいたいこのような記事が多く残っている。
6.遊郭の消滅
1926(大正15)年に福佐楼にて製茶場の火の不始末から発火、妓楼全部が焼失した。幸い無風だったことと消防隊の活躍により両隣の福伊勢楼と福川楼は類焼を免れた。
再建され営業は続いたが昭和に入ると不況が続き、また、カフエーやバーといった新しい業態の進出に圧迫され貸座敷は次々と閉店していった。
『公娼と私娼』によると1929(昭和4)年には貸座敷3軒、娼妓10名まで減少している。
最後は福佐楼のみとなり、その福佐楼も1922(昭和7)年6月1日に廃業届を出し、ここに烏山旭遊郭は消滅した。1935(昭和10)年には大門も取り払われ古物商に売られて行った。
福佐楼の広告(『下野新聞』より転載)。
ただし福佐楼は1921(大正10)年、烏山から少し離れた氏家遊郭にあった松石楼を買い取って福佐楼支店を出しており、氏家にて本店よりもう少し長く営業を続けることになる。1942(昭和17)年の電話帳には掲載されているが、おそらく戦後までは続かなかったと思われる。
7.遊郭跡地を歩く
遊郭があった場所を実際に訪ねてみた。
烏山駅を出て西にまっすぐ歩くと市街を南北に貫くメインストリートにぶつかるので左折し南に向かう。
このあたりが遊郭が出来る前の新場旅籠が出来た金井町。
「福田川」の看板がある道を左折。ここが遊郭のために新たに設置した道である。
遊郭エリアの手前にお寿司屋さんの「福田川」がある。さきほど転載した画像の通り、「福田川」は遊郭内で営業していたお寿司屋さんであり百年以上の歴史を持つ。遊郭消滅後は現在の場所に移り営業されている。
せっかくなので暖簾をくぐると気さくなご主人と奥様がいろいろ話してくれた。
「福田川」はもともと宇都宮にいたひいお婆さんが当時那珂川水運で栄えていた烏山に来てお稲荷さんや巻物を売り出したのが始まりだったという。やがて代が変わってお爺さんが東京に寿司の修行に出て本格的なお寿司も出すようになったそうだ。
百年以上継ぎ足し続けたタレで作ったお稲荷さん。名付けて「百年稲荷」。遊郭に登楼した客も娼妓に鼻毛を読まれながら食べたであろうと考えると感慨深くなる。奥様は
「昔ながらのものなので特別にすごいってわけじゃないんですけどね」
と謙遜なさるがいやいやこれぞ正しいお稲荷さん。絶妙なタレとお揚げと酢飯のバランス。

海鮮丼もいただく。玉子焼きも評判がいいんですヨと奥様。海鮮のネタも大きく、

イカ刺しもいただいてしまってとてもおいしゅうございました。
1904(明治34)年の『下野新聞』の「烏山の茶屋覗き」という記事には
『福田川は宇都宮から来たもので料理の他にお仙お國の姉妹を第一の目的に詰め掛ける客もあれど』
とあり、さきほど聞いたお話と合致する。福佐楼のY田家も前述の通り宇都宮の福田家にゆかりがあったというし、福田川のご先祖様ももしかしたらY田家と縁があり「福仲間」になったのではないだろうか。それにしてもお仙ちゃんとお國ちゃん、どんだけ美人看板娘姉妹だったのだろうか。

福田川を後にして道を進むと烏山線の踏切がある。

「新地踏切」とあり数少ない遊郭の名残りの一つ。踏切を渡ったそばに遊郭の入口である大門があったという。
絵葉書の場所はこのへんだろうか。

その他遊郭の名残りは何もない。

遊郭跡地を南北に国道が貫いている。

お稲荷さんが祀られている。2015年にもここに来たことがあるがその時はなかった。

遊郭跡地の東端。大門の反対側にあたる。この先は崖。

ここから直接崖の下には行けないので、坂道があるところまでぐるっと回って下りて行ってみた。この上が遊郭跡地である。『栃木県烏山町真景』にはこの崖にも道と大門の反対の裏門のようなもの描かれてるが崖の傾斜が急すぎてとてもそんな道があったとは思えない。この崖が前述した河岸段丘の崖であり、烏山市街の東端と那珂川の間を沿うように続いている。

複雑な水路もあり山城みたいな防御体制である。それでも娼妓が逃げたという記録は新聞にいくつも残っており( これも烏山に限ったことではないが)、さぞ辛い環境だったのだろうか。
お稲荷さんの味の余韻に浸りつつ烏山を後にした。
「烏山はねー。古い建物がほとんど残ってないんですよ」
と福田川のご主人がポツリと言っていた。烏山は栃木県の遊郭にしては比較的資料は多かったものの、現存する名残りがほとんどなくて、烏山だけにCROWした。なんちて。
【参考文献】
・下野新聞社『下野新聞』
・澤村 儔(1984)『烏山旭遊廓 烏山に於ける公娼の起源と変遷』行人社書店
・大森 茂宏(2007)『烏山旭遊廓 : 忘れられた郷土史』
・加藤 晴美(2021)『遊廓と地域社会: 貸座敷・娼妓・遊客の視点から』清文堂出版
・日本遊覧社(1930)『全国遊廓案内』日本遊覧社
・烏山町教育委員会『写真で見る烏山町』烏山町教育委員会
・烏山町史編集委員会編集(1978)『烏山町史』烏山町
・栃木県(1886)『栃木県統計書』栃木県
・栃木県警察部(1887-1897)『栃木県警察統計表』栃木県警察部
・内務省警保局(1931)『公娼と私娼』内務省警保局
・『栃木県電話番号簿』昭和17年10月1日現在
・福田川Facebook
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