2021-06-06(Sun)

xiangyuライブレポート『gaiA supported by FIRST FINDER』渋谷TOKIO TOKYO 2021.06.05

久しぶりにxiangyuちゃんライブを観た。

観に行くたびに「久しぶり」になってしまうこのご時世。今回は2か月ぶりぐらいか。

場所は渋谷のTOKIO TOKYO。今年になってhotel koe tokyoの地下に出来たライブハウス。そういえばhotel koe tokyoでは水カンのコムアイさんによる映画鑑賞会があって「帝都物語」を観たものである。あの時一緒に観たカンパネラ―の皆さんとも暫く会ってない。

xiangyuちゃんの出番は二番手、17:50ごろ颯爽と赤いシャツを纏い登場。やば、似たような服着て来るところだった。暑いからやめたけど。


そんなことはどうでもよく最初の曲は「BBIISPP」。いつの間にか寝落ちして気付いた翌朝、気怠い後悔と今日もやる気なし夫感が漂うこの曲。身体はバキバキ喉はイガイガ、目はシパシパだし顔パンパン。日頃疲れているとこういう曲が染みる。

xiangyuちゃんのパフォーマンスは相変わらず軽快でタフでガンガン曲を披露してゆく。ほんの30分の間に矢継ぎ早に9曲とか演ってしまうのだ。

コロナ前は週1ぐらいの勢いでライブがあったものだが残念なことである。本人が一番もどかしいに違いないが。


コロナ後のライブで発表された「モスキート」。指の関節を刺されると地獄、という蚊の歌。歌詞が蚊なり気になるがまだリリース予定はない模様。


ライブの最後を締めくくるのは最近巷で話題の「ミラノサンドA」。このライブの次の日の6月6日付け、J-WAVEのTOKIO HOT100では見事7位にランクインした。

シャンちゃんはMCでコロナが始まり約1年半、あまり思うように活動出来なかったことを話していた。葛藤や悩みがありつつも、それでもよくやってきたと肯定しつつ、今日も頑張ろうという時には大好きなドトールコーヒーの「ミラノサンドA」を食べてやる気を出すんです…ということを話していた。

コロナで思うように出来ないこと、コロナでしたくもない苦労や悩みを抱えてしまうこと、暗くなりがちだが、好きな食べ物でメンタルをポジティブな方向に持って行きたいというのは大変共感が持てる。

更に今日ライブをやってくれたことについても大変感謝したい。明日も頑張ろうという気持ちになれた。

xiangyu

xiangyu
ライブ後写真を撮らせてくれたシャンちゃん。ちゃんとマスクをしていたのだが無理行って撮る時だけは取ってもらうようお願いすると

「はっはっはー。そう来ますかー」

と笑って取ってくれたが調子に乗って今後も図々しくお願いし過ぎると怒られそうである。

仏の顔もミラノ三度。なんちて。

【セットリスト】

1.BBIISPP
2.Y△M△
3.プーパッポンカリー
4.菌根菌
5.ひじのビリビリ
6.モスキート
7.秒でピック白
8.home
9.ミラノサンドA

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2021-05-04(Tue)

栃木県日光市足尾町遊郭跡地を歩く

栃木県日光市足尾町遊郭跡

かつて栃木県日光市足尾町に遊郭があった。栃木県内において最も大きな遊郭は県都宇都宮にあったが、最も最初に出来た遊郭は実は足尾であった。

これまで自分が調べてみた栃木県内の遊郭跡はほとんどが宿場町の飯盛旅籠(めしもりはたご:旅人のお世話をする飯盛女と呼ばれる売春婦を置く売春宿)をルーツとするものだった。しかし足尾は足尾銅山と共に栄えた栃木県内では珍しい鉱山街。その遊郭の歴史を辿ってみることにする。



1.足尾町とは




足尾町は栃木県の西端にあり日光市に属する。ほぼ四方を山に囲まれた山間部の町で、足尾銅山と共に繁栄した。

足尾銅山は江戸時代初期に発見され、徳川幕府直轄の日本有数の銅山となり江戸時代中期頃は「足尾千軒」と呼ばれるほど栄えた。その後一時衰退するが1877(明治10)年に銅山が古河財閥の古河市兵衛による経営になると再興し銅の産出量日本一を誇るようになり街も再び発展していった。

街の中心部は現在通洞(つうどう)駅近辺の「松原」と「赤沢」と呼ばれる地区で、これからの記述もこのエリアを中心に綴ってゆく。

2.遊郭の設置



銅山の再興により街も急発展する。数千の銅山抗夫、雑夫の多くは荒っぽい人達であり賃金の多くを酒や女に浪費する。そのため至る所に「無足屋」(だるまや:すぐゴロンと転がり抱ける女を雇った店)と呼ばれる売春業者が跋扈、

「あなたお寄んなさいよ、容子のいいお方」
(今風に言うと「イケメンさん寄ってってよ」とでもなるだろうか)

などと客引きするようになったため、1885(明治18)年に赤沢のうち「前原」と呼ばれる地区に遊郭が設置された。

当時はまだ栃木県には遊郭設置規定はなかったが1883(明治16)年に栃木県知事「貸座敷娼妓取締規則」という風俗営業のルールが布達されている。

「貸座敷」とは上記規則に基づき県に届出て公に認められた売春店を指しいわゆる女郎屋さんのこと、「娼妓」も同様に公に認められた売春婦のことでいわゆる女郎さんとかおいらんのことである。

「貸座敷娼妓取締規則」によると第2条に「貸座敷は新規開店をするを許さず」とあるが、1884(明治17)年12月27日の地元栃木県の新聞「下野新聞」に

『下野の足尾銅山と天下に名ある足尾にては他と異なり近年すこぶる景気よきことは本紙にも記載せしことあり兼ねてより同地へ遊廓を設置するの事を願い出んと目論みし者ありしが此の程いよいよ設置の事に着手せり既に当地などへも娼妓をかかえに来りし輩ありと是は10戸限り許可せられしとの風説なり』

足尾に遊郭を設置することが許可された、という記事が載っている。当時県都宇都宮に次ぐ人口を持ち、鉱山街という鉱員が集まる土地柄も考慮されて許可されたのではないだろうか。

無秩序に展開する無足屋や無足を集めて貸座敷所属の娼妓とし、貸座敷以外の料理店、飲食店の茶汲女、炊卑などの名義の女性従業員に対してはモグリで売春営業をさせないよう顔に化粧を許さず、給仕以外は客席にいることも許さない等、厳重な制度を以て風紀を取締ろうとした。

遊郭が設置された当初の様子は1885(明治18)年2月25日の下野新聞によると

『足尾の遊廓

同地にて遊廓設立以来頃日梅毒検査をせられ当地公立病院より医員渡氏が出張せられたり娼妓は36人なりしと

同遊廓の景況

前項のついでに今同地の景況を記すべし全体同地には小料理店もありしかと実はその位にては金を遣い足らず居たりしに今度遊廓の設立になりしより一時に人気立ち昼夜の差別なく来客は踵を接し半円や円助の札ビラではなくいずれにも5円10円と纏まった金を巻き散らすので実に盛んなる景気なれども妓楼は建築充分に至らざるを以て座敷も狭く一間の中へ数人雑魚寝をする等の不体裁なりと同地より』

既に娼妓達への梅毒検査がなされていること、遊客達が相当景気良く金を落とすこと、急普請だったのか貸座敷内が相当狭かったことなどが報じられている。

貸座敷数や娼妓数については『栃木県統計書』及び『栃木県警察統計表』によると

栃木県日光市足尾町遊郭跡
1885(明治18)年に貸座敷数9軒、娼妓数37人で始まり1898年までは貸座敷数は8軒、娼妓数は70~80名程度になっている。娼妓数の多さでいえば栃木県内では県都宇都宮は別格として、堀米(現佐野)、福居(現足利)、合戦場(現栃木)、大田原等と同規模の2番手クラスである。

ちなみにこの貸座敷のうち「太田楼」は足尾の景気の良さを見込んで合戦場から移転して来た。また、奈佐原(現鹿沼)からも1軒移転して来たという。

ところが1899年3月14日「松寳楼(しょうほうろう)という貸座敷から火災が発生し貸座敷8軒を含む付近200余戸が全焼してしまう。以降4軒の貸座敷は再開したが残りは廃業、娼妓数も半減してしまった。貸座敷数が1899年はまだ8軒なのはタイムラグだと思われる。以降貸座敷数娼妓数共に徐々に減って行くことになる。

栃木県日光市足尾町遊郭跡

遊郭の場所は厳密には確定出来ないが黄色く色付けしたところ。通洞駅から歩いて10分弱、現在の足尾小学校や足尾こども園の前の通りの少し前の交差点あたりである。「元太田楼」「齊藤楼」「鶴福楼」とあるのは

栃木県日光市足尾町遊郭跡
1907(明治40)年発行の『栃木県營業便覧』にて確認出来る貸座敷を落とし込んだ。場所は分からないが他に「上野楼」という名前の貸座敷もあった。「元太田楼」というのは先程述べた合戦場から移転してきた「太田楼」の系列だろうか。

栃木県日光市足尾町遊郭跡

足尾の街中にいくつか掲示されている昔の写真の1枚。「商人宿通 1897以降」とある。これは

栃木県日光市足尾町遊郭跡

遊郭エリア中央の交差点あたりから矢印方向を撮ったものである。

栃木県日光市足尾町遊郭跡

同じ場所から撮った現在の風景がこちら。この日は大雨で山に雲がかかっていて分かり辛いが山の形が同じである。

栃木県日光市足尾町遊郭跡
矢印のすぐ右側に元太田楼があることに注目して欲しい。すなわち

栃木県日光市足尾町遊郭跡
この写真の右側にある建物こそが元太田楼ではないだろうか。栃木県最古の貸座敷写真を発見してしまったかもしれない。

栃木県日光市足尾町遊郭跡
現在では右の赤い建物がある場所に元太田楼があったことになる。

栃木県日光市足尾町遊郭跡
北側から撮った画像がこちら。赤い建物の場所に元太田楼、その奥に齊藤楼があった。

さて、遊郭が出来たことによって風俗営業は遊郭内に限られるようになったかというと全然そんなことはなく、1900(明治33)年12月14日の下野新聞に「無足屋総攻撃」と題した記事には風俗営業まがいの接客をした店を片っ端から取締っている。しかし

同じく下野新聞の1905(明治38)年9月15日には

『足尾町の現在の料理屋飲食店総数110余軒密売淫婦総数300に余り』

同年10月28日には

『足尾町の料理屋飲食店は十中八九曖昧屋(料理店や宿屋に見せかけた売春店)にて』

等、街中での売春が常態化しており何度となく「旅舎検」という無足や芸者、その他娼妓以外の女性従業員が客と寝ていないかを調べる警察の抜き打ち検査が行われている。

3.遊郭の移転



足尾以外の栃木県内の遊郭の動きとしては、足尾遊郭の9年後にあたる1894(明治27)年に宇都宮の貸座敷が「街中に貸座敷があるのはよろしくない」として通称「亀廓」と呼ばれる遊郭に移転した。

そして1899(明治32)年9月15日に栃木県知事により「遊廓設置規定」が発布され、遊郭設置場所を始め遊郭内の道路の広さや境界への塀の設置他細かい取り決めが定められた。

これにより県内各地の貸座敷も遊郭に移転するか廃業するかの2択になり、移転する場合の最終リミットは1908(明治41)年の3月だった。

県内で最初に遊郭を設置した足尾であるが、前原の地は既に足尾の街の中心部として発展しており、渡良瀬川を渡った向原という地が再度遊郭の指定地となった。

栃木県日光市足尾町遊郭跡

すいぶんと隔離された場所になってしまっている。この新遊郭には1908(明治41)年2月29日、齋藤楼1軒のみが移転した。当初9軒あった貸座敷も無足屋や芸者屋に押されたのか1906(明治39)年時点ではたった2軒しか残っていなかった。

栃木県日光市足尾町遊郭跡

これは1916(大正5)年に発行された「足尾町商業案内便覽圖」で、右上に凹形をした建物と「遊郭 齊藤楼」とあるのが分かる。誇張しているかもしれないがかなり大きな建物である。3階建ての妓楼であったという。小字名が「大日窪」だったので「大日窪遊郭」とも呼ばれていた。

栃木県日光市足尾町遊郭跡

これは下野新聞に載った移転直後の新年挨拶の広告。「足尾町新地遊廓齊藤楼内」として11名の娼妓名が記載されている。1軒で11名の娼妓を抱えるのは栃木県の貸座敷としてはどちらかと言えば多い方である。

旧遊郭地の前原から新遊郭には間を隔てる渡良瀬川の中州を渡るように橋があり、そこを渡って行けたという。現在はほぼ同じ場所に吊り橋があるが実際歩いてみたら10分ほど掛かった。

齊藤楼がいつまで営業していたかははっきりとは分からない。下野新聞にはよく遊郭関係の3面記事が載っているのだが齊藤楼に関しては極端に少ない。しかも娼妓の逃走や客との駆落ち、といった暗い記事が殆どである。自分が把握している中では1926(大正15)年9月11日にあった記事が最後で、1929(昭和4)年時点の貸座敷数や娼妓数の調査が載っている内務省警保局「公娼と私娼」では既に足尾の記載はない。

但し1930(昭和5)年発行の「全国遊廓案内」には「足尾町遊廓」について

『私娼のためび圧倒されて現在では妓楼がたった1軒娼は約10人程居るのみだ』

不景気で細々と営業しているさまが記されており、年代の特定が難しい。いずれにせよ昭和の早いうちに芸者や無足などに押され、ひっそりと閉業して行ったのではないだろうか。

栃木県日光市足尾町遊郭跡

ここが齊藤楼跡地。手前の空き地の石が積み上がった一段上のあたりと、奥の2階建ての家と屋根が青い平屋が建っているあたり。


グーグルマップだとこのへん。

栃木県日光市足尾町遊郭跡

2階建ての家の屋根に「寿」。これは遊郭に繋がる手掛かりかもと考えながらとりあえず撮った。

栃木県日光市足尾町遊郭跡

こういうのも遊郭の名残りかと思ってしまい妓楼名でも刻まれていないかと見てしまう。

栃木県日光市足尾町遊郭跡

2階建ての「寿」の家と青い平屋の間の細い路地。足尾はこのような細い路地が多い。普通の民家であり、住んでいる方々がいらっしゃる家をバシバシ写真に撮るのもよろしくないかと思いこのへんで引き上げることにする。

4.遊郭移転後の花街



遊郭移転後の前原地区は芸者さんがたくさんいる街になった。花街である。置屋(芸者さんが所属するいわば芸能事務所)や置屋から芸者さんを呼んで宴会をする料亭・旅館などが集った。

「置屋」と「料亭」、そして、芸者さんを置屋から呼び、料亭から料理や酒を出前して遊ぶ場所「待合」、すなわち「置屋(芸者)」「料亭(酒と料理)、「待合(遊ぶ場所)」この3つの営業を認められた花街を「三業地」と呼ぶが、足尾の場合は「待合」はなく、芸者さんを料亭または料亭兼旅館に呼んで遊んだ。これを「二業地」という。足尾の場合は自宅にまで芸者さんを呼んだ剛の者もいたという。

栃木県日光市足尾町遊郭跡

栃木県日光市足尾町遊郭跡

これらは1915(大正5)年の下野新聞の新年挨拶広告。それぞれ壽家見番と大和家見番と各所属芸妓名が記されている。

「見番」とは置屋と料亭の間に立ち、どこの料亭の客にどの芸者を送るといった取次や玉代(芸者のギャラ)を計算する事務方みたいなものである。

大和家検番は前原にあった料亭大和家系列の見番であろう。そして壽家見番は料亭八百佐・割烹旅館一丸、そして遊郭貸座敷齊藤楼の3者が出資した見番であった。壽=寿、さきほど見た新遊郭跡に建つ家の屋根の「寿」と何か繋がりがあるのだろうか。

栃木県日光市足尾町遊郭跡
壽家見番と所属芸妓たち。(「ごめんください、足尾のこと教えてください!その3~商店・映画館・芸者のこと~」より転載)

すなわち齊藤楼は前原から向原に移転した後も地の利を完全に失ったわけではなく、見番を通じて前原から芸者を引連れて遊郭齊藤楼へ揚がってドンチャン騒ぎする、といったような派手な遊び客を誘導していたのである。

これは足尾に限った話ではないが娼妓を遊郭に隔離したところで無足が減るわけではないし、時代が進むと遊郭も古臭くなりカフエーや特殊飲食店などのモダンだったり現在の風俗店に近い手軽で簡潔に性欲を満たせる売春店が流行るようになる。芸者だって普通に客と寝る。

宇都宮の遊郭には昭和になるとカフエー調に改築したりビリヤードを置いたりした貸座敷もあったが、遊郭はまず地理的に街から離され、やがて時代からも取り残され消えて行った。

5.足尾観光



ここからは遊郭以外の昔の売春店や足尾銅山関連、あと単なる街歩きのことを記す。

栃木県日光市足尾町遊郭跡

これは前原の隣の松原にあり、前原と松原の境をなす渋川にかかる姿見橋そばにある建物2棟。

左の「立川」と読める建物は元銭湯、右の赤い屋根の建物は元女郎屋だったという。

栃木県日光市足尾町遊郭跡

屋根に鶴の絵が残る。貸座敷のひとつだった「鶴福楼」に関連するものだったら面白いのだけれど。

栃木県日光市足尾町遊郭跡

こちらも松原地区に残る建物。これは元カフエー「西養軒」だった。

栃木県日光市足尾町遊郭跡

「古河足尾歴史館」にあるスクラップ資料にて見つけたもの。建物が写真当時のものと一緒で感動。このようにカフエーとは現在の単なる喫茶店みたいな意味ではなく、女性店員がお客の相手をし、お酒を提供する店であった。

栃木県日光市足尾町遊郭跡

こちらは前原地区にあるアーチ型の玄関を持つ建物。これも元カフエーだったという。

栃木県日光市足尾町遊郭跡

通洞駅から一番近い通り「銀座通り」に移ると水色の鮮やかな建物が。ペンションらしい。さすがに今は営業していないようだが、看板にある店名「ヒロ」はこの先読み進めるにあたって覚えておいていただきたい。

そして足尾といえばやはり銅山。銅山なくして足尾は語れぬ、というわけで



「足尾銅山観光」を訪ねた。実際の坑道を歩きながら再現された抗夫人形や抗夫ロボを見ながら銅山について学ぶことが出来る。

栃木県日光市足尾町遊郭跡
見学コースが終わると

「銅もありがとう.また銅ぞ」

とかいうベタなダジャレメッセージで送られるが、自分もダジャレオヤジなのでここはじっと我慢。ここを抜けるとお土産コーナーになる。

栃木県日光市足尾町遊郭跡

栃木県日光市足尾町遊郭跡

栃木県日光市足尾町遊郭跡

そのお土産コーナーがものすごい昭和。絶滅したはずの恐竜がそこにいましたみたいなロストワールドのような空間がそこにあった。早速見て回ってみたところ

栃木県日光市足尾町遊郭跡

お土産屋さんにありがちな時代に取り残されたオモチャ。ときめきセレナちゃんとは。

栃木県日光市足尾町遊郭跡

栃木県日光市足尾町遊郭跡

「寛永通宝」の「足字銭」を購入。寛永通宝とは江戸時代の一文銭。足尾にて鋳造されたものはし裏面に「足」の文字を記した。足字銭は一説によると2億枚も鋳造されたといい、お金を意味する「お足」や「足が出る」などは足字銭が語源だという説がある。

この売り物の足字銭は200円から2,000円まで売り値が幅広く、店のおじさんによると

「文字が見えやすく状態のいいものがお値段高くなっております!」

とのことだったので1,000円のものを買ってみたのが上記画像である。今改めて見ると1,000円も出したんだからもちょっと字が読みやすくてもいい気がするが。会計時におばちゃんが

「これオマケね」

と一銭銅貨とかオマケしてくれたからまあいいか。

栃木県日光市足尾町遊郭跡

お土産フロアの上はレストランフロアになる。現在は案内によると「珈琲&スパゲッテ ヒロII」しかないようだ。スパゲッテとは。しかし僕はここでスパゲッテを食べたいと思っていたので階段を駆け上がってみたら

栃木県日光市足尾町遊郭跡

やってなかった。店内の電話の呼び鈴だけが何度も何度も空しく響いていた。僕みたいな「今日やってますか?」と一縷の望みを掛けた客が電話をしてるのだろう。

なんで「ヒロII世」とかいう変な名前なのだろうと思ったが、ふと先程見かけた水色のペンション「ヒロ」の関連店なのではないだろうか。

6.足尾グルメ



栃木県日光市足尾町遊郭跡

足尾銅山観光を離れ、ヒロII世に振られた僕が昼飯を食べたのは「さんしょう家」という山椒の風味を効かせた料理がウリのお店だった。

栃木県日光市足尾町遊郭跡
ここで食べたのは「山椒の鶏照焼き御膳」900円。山椒の風味も素晴らしく、鶏肉もみずみずしくてとても美味しかった。

さらにこのお店の建物は昔「大野家」という女の子が接客するスナックみたいな飲み屋だったらしく、

栃木県日光市足尾町遊郭跡

店の中に当時の「風俗営業従業者名簿」なるものが無造作に置いてあった。

栃木県日光市足尾町遊郭跡

まず風俗営業取締法とは何ぞや、ということで説明から始まり、

栃木県日光市足尾町遊郭跡

女子従業員ひとりひとりの個人情報まで事細かに書かれている。

とあるネットではこの資料を根拠とし「この建物にあった店は遊郭だった」等と記述されていたので期待(?)してこの資料を手に取ったが、この名簿の始まりは少なくとも1958(昭和33)年以降、すなわち売春防止法完全施行以降のものなので、遊郭時代どころか赤線・青線廃止以降のものなので少なくともこれが売春営業を証明するものではない。ただしもっと前は芸者の置屋だったという。

見ていて面白いと思ったのは、昭和30年代に記載の女性は職種に「女中」と書いてあるが、時代が下るにつれ「ホステス」となっていたことである。

栃木県日光市足尾町遊郭跡

この後訪れた古河足尾歴史館にて「大野家」のマッチを発見した。おそらく彼女ら女中・ホステスがいた時代のものだろう。

「さんしょう家」のランチでお腹を満たした僕であったが、やがておやつを食べたくなったので足尾で現存する唯一の駄菓子屋「栗原商店」を訪ねた。

栃木県日光市足尾町遊郭跡

店頭のコカコーラ自販機、ガチャガチャ、タバコ販売ブース、等、完璧なたたずまい。僕も小さい頃駄菓子屋にいくついでに父親のタバコのお遣いをさせられたものである。

栃木県日光市足尾町遊郭跡

栃木県日光市足尾町遊郭跡

栃木県日光市足尾町遊郭跡

写真には採れなかったが他にもスーパーボールのクジなどあったりして駄菓子屋の雰囲気は満点。

僕が店に入ると奥からご主人が「はい、いらっしゃい」と出て来て、僕はアイスを買ってお会計。お金を渡したらご主人はまた奥に引っ込むのかなと思ったらゴルフクラブをむんずと掴んで僕と共に店の外に出て道端でぶおんとゴルフの素振りを始めた。え、僕を威嚇してるんじゃないよね…。おいら怪しいもんじゃないよ。おいらベロってんだ…。

栃木県日光市足尾町遊郭跡

栃木県日光市足尾町遊郭跡

栃木県日光市足尾町遊郭跡
おやつ第2弾は「御菓子司安塚」の「あんこ玉」。黒糖を使ったこし餡を丸めて寒天でコーティングしたもの。あんこ玉2個がくっついていて1個140円。これが結構クセになる美味しさで良かった。見た目もかわいいし。

これにてひととおり予定していた足尾の探索は終わったので帰るべく通洞駅に着いたところまだ列車が来るまで時間があった。そこで駅前で揚げ物のいい匂いを漂わせていたお店があったので買い食いすることにした。

栃木県日光市足尾町遊郭跡
ますや精肉店にてメンチカツとハムカツを購入。

栃木県日光市足尾町遊郭跡
このお店は「栃木県營業便覧」にも「牛馬売買商馬肉販売商升屋」と記載があり100年以上続いていることが分かる。

栃木県日光市足尾町遊郭跡
駅のベンチでいただきマンモス。

栃木県日光市足尾町遊郭跡
みっしり詰まっていて美味しい。ハムカツも優しい温かさと匂いで美味しかった。

栃木県日光市足尾町遊郭跡

栃木県日光市足尾町遊郭跡

通洞駅ホームにあった看板に「ヒロII世」が。無休て。やってなかったじゃないか。

と最後に恨み節を吐いたがリベンジのためにまた足を運ばなければならない。

足尾だけに。なんちて

【参考文献】

・『風俗画報臨時増刊(足尾銅山圖会)』東陽堂,1901
・城北逸史『栃木県營業便覧』全国営業便覧発行所,1907
・『栃木県統計書』栃木県,1890~1894
・『栃木県警察統計表』栃木県警察部,1906
・神山國吉『足尾町商業案内便覽圖』,1916
・『全国遊廓案内』日本遊覧社,1930
・三浦佐久子『雪松という女―常盤通り「寿家」見番家族』竜書房,2020
・内務省警保局『公娼と私娼』,1931
・松川二郎『全国花街めぐり』誠文堂,1929
・日光市地域おこし協力隊『ごめんください、足尾のこと教えてください!その3~商店・映画館・芸者のこと~』,2019

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2021-03-27(Sat)

xiangyu『奇跡の誕生祭~食品祭~』代官山 晴れたら空に豆まいて 2021.03.25

久しぶりなxiangyuちゃんライブ。

xiangyuこのご時世なかなか日常からライブハウスのフロアのテンションへのギアの切り替えがうまくいかないのだけれども、xiangyuちゃんはいつも通り最初から攻めのパフォーマンス。やっぱりライブっていいなと身に染みる思い。


「Y△M△」(山)という曲。頂上で見るご来光…山で食べるラーメン、飲むコーヒーの美味しさ、xiangyuちゃんの趣味の一つである登山の素晴らしさを歌いながら教えてくれる曲。


「プーパッポンカリー」

xiangyuちゃんのデビュー曲。思い返せばなんのきっかけでかは忘れたが、初めてMVを観た時は謎の民族音楽っぽいハウスやヘンテコな歌詞、それでいてどこか既視感があり、xiangyuちゃんのどことなくエキゾチックなイメージでインパクトだらけであった。

それで2018年11月、初めてライブに行って見ると

xiangyu
このおふた方、左から水曜日のカンパネラのメンバーでマネージャー・Dir.Fさん、同じくサウンドプロデューサー・ケンモチヒデフミさんがいたので納得してしまった。既視感というのはそこはかとなく水曜日のカンパネラのノリが漂っていたことによるものであった。

xiangyu
今夜もおふたりは鎮座ドープネスしておりDir.FさんはVJを、ケンモチさんは勿論サウンドを担当しておられた。目を隠すFさんは五条悟かな。

xiangyuちゃんはライブ中のトークは少なめで、矢継ぎ早に曲をどんどん展開していく。それがどれもこれも尖ってたり人懐っこかったりと皆個性的な曲で面白い。


「モスキート」。蚊に刺されて地獄、という曲だが歌詞が聞き取れてなくて非常に気になる曲。夏ぐらいにリリースされるという。まさか蚊のシーズンに合わせてたりして。


ライブの締めはこの曲「BBIISPP」。ライブで弾けて疲れ切って、風呂も何もしまいままそのままバタンキュー(死語)してしまってもいいんだぜ、という曲。楽しんだ後の倦怠感を最後にちょびっと匂わせxiangyuちゃんのライブは終わる。

この日はxiangyuちゃんを含め対バンの方々の中に最近誕生日を迎えた方が多いとのことなので、誕生日おめでとうイベント的な空気があった。

なので手ぶらで行くのも…と思い何か渡そうと考えた。年頃の女の子に贈る物なんてどんなんがいいか分からないし、ライブに行く直前に思い付いたことだったので、自宅から一番近い店で買うことにした。「酒屋」だった。そこで「獺祭」を買って渡した。

xiangyu
xiangyuちゃんが日本酒飲めるかどうか分からないが、お誕生日おめでとう、新しい1年も頑張ってくだっさい、という意味で。なんちて。

うわ。なんでもかんでもダジャレに逃げるのは我ながらダッサイ。なんちて。

【セットリスト】

1.ピアノダンパー激似しめ鯖
2.Y△M△
3.プーパッポンカリー
4.菌根菌
5.ひじのビリビリ
6.モスキート
7.秒でピック白
8.home
9.BBIISPP

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2021-03-06(Sat)

栃木県大田原市黒羽遊郭跡地を歩く。

栃木県大田原市の黒羽。

東北本線西那須野駅からバスで東へ40分ほど揺られていると到着する。明治維新まで続いた大関氏による黒羽藩の城下町として、また那珂川の水運の拠点として栄えた。

「全国遊廓案内」(1930年)には「黒羽村遊廓」についての記載があり、

『山中に在る。ぽつりんとした小さな村であるが、隣の川西町と共に那珂川の上流河畔に望んで水運の便があるので、之の町には相当に近在の人々が集って来るので、現在では遊楼が四軒、娼妓は約二十人程居る。御定まりは二円位で酒肴が付いて一泊出来る。二円以上三円、四円五十銭と費用は客の任意であるが、特に本部屋としての設備がない様である。遊興は東京式廻し制、店は重に陰店を張っている。娼妓は全部居稼ぎ制である。』

とある。「ぽつりん」というのがカワイイ。

明治時代の小説家、押川春浪の「本州横断 癇癪徒歩旅行」には、水戸から黒羽に寄る途中、八溝山に登った際、廃殿に

『明治43年10月20日、黒羽町万盛楼の娼妓小万、男と共に逃亡、この山奥に逃込みし、捜索のため云々…』

という落書きがあったと記されている。また、遊郭と背中合わせに「曖昧屋」(表向きは旅館だったり料理屋だったりするけれども、お相手する女性がスタンバってて売春をする非合法な店。ちなみに遊郭は合法。)があったとも。

遊郭は黒羽の街の中心から北の方、現在の住所では栃木県大田原市前田にあった。



「下野新聞」によると黒羽遊郭の開業は1902(明治35)年1月25日と記されている。栃木県内の遊郭はもともと街道沿いの宿場町などにある女郎屋(貸座敷)がルーツになっていることが多い。しかし黒羽はそこまでメジャーな宿場町でもないし、それまで女郎屋は全くなかったが、1899(明治32)年に栃木県知事により発布された「遊郭設置規定」にて、これまで「遊郭を作っていいよ」とされていた県内16カ所の遊郭設置指定地に加え黒羽も突然追加された。

黒羽のように突然指定を受けた地は他にも8カ所もあり「風紀を乱す」と大反対運動が各地で起こったが、結局は遊郭が新設されたところが多かった。黒羽もそのひとつとなった。

開業時は井開楼という名前の貸座敷が1戸、娼妓4名、藝妓2名、半玉(はんぎょく:まだ年少の藝者)1名で始まり、その年5月に萬盛楼が開業、その後奈良楼と富貴楼が加わり最大4軒の妓楼があった。

現在の様子は以下の通り。当時の痕跡は全くなかった。

黒羽遊郭
遊郭の西側から東方面を撮る。

黒羽遊郭
東側から西を。

黒羽遊郭
辛うじて電柱に「新地」とあったのが遊郭(新地)の名残りといえるかもしれない。

黒羽遊郭
この廃屋の向かって右側は民家の駐車場になっているが、40年ほど前の住宅地図を見てみるとここには「大塚○兵衛」さんという方の家があった。この名前は4妓楼のうちのひとつの主人の名前と「○」のところを除いて一致しており、ここに4軒の妓楼のうちのひとつがあったと考えたい。

ここで僕より以前に黒羽遊郭跡地を調べられていた、がりつうさんからシェアしていただいた画像も転載する。

がりつうさんのブログ→「がりつうしん」
がりつうさんのtwitter→@garitune



がりつうさんによる黒羽遊郭跡地画像。僕より10年ほど前に訪問されており、先程の廃屋がまだ現役に見える。

黒羽遊郭
松井天山による鳥瞰図「黒羽町及川西町真景図」1924(大正13)年。左下から遊郭へのメインストリートが伸びその先に大門が見える。貸座敷らしき建物の上には左から「奈良楼」「井開楼」「富貴楼」「万盛楼」の文字が、そして右に「遊廓」と読める。

遊郭跡地の近くにある「芭蕉の館」に複写が売っていると教えていただいた。時間がなくてスルーしてしまったのが悔やまれる。

黒羽遊郭

黒羽遊郭
さきほどの廃屋のそばに貯木場があったのだが、その裏手にあったお稲荷様。僕が行った時は見かけなかった。撤去されていたのだろう。

黒羽遊郭
鳥居に刻まれている文字。「奈良楼 女部屋女中一同 藝妓一同」と読める。僕も見たかったものである。

がりつうさんの画像はここまで。転載許可ありがとうございます。

黒羽遊郭
なんとなく2階部分が気になった民家。

黒羽遊郭
屋根が素敵な民家。

黒羽遊郭

黒羽遊郭
山と川に挟まれてぽつりんとした黒羽の街並み。

黒羽遊郭
中世の西洋では理容師と医師は同じであったことを思い起こさせる床屋跡。

黒羽遊郭
人見さんという家が多かった。

黒羽遊郭
北朝鮮ぽいパチンコ屋(?)の廃墟。

黒羽遊郭はいつまで続いたか。

1930(昭和5)年。遊郭の地主黒羽町高橋某氏が、土地を借りている各貸座敷楼主達になんの連絡もなく突然土地を売却し、新たな地主になった宇都宮市河原町野沢某氏(宇都宮遊郭関係者か?)は借地料をいきなり約3倍に値上げして交渉をしてきたので怒った楼主達と裁判沙汰になった。

そんな揉め事もありながらも長く続いた。

日本の遊郭は1946(昭和21年)に公娼制度が廃止されたことで消滅するのだが、売春業が全く無くなったわけではなく、その後も警察に承認、または黙認された売春店が残った。赤線である。

黒羽も赤線まで残っていたようである。遊郭が戦後まで生き残って赤線となった場所は栃木県では宇都宮や合戦場など、規模の大きな遊郭が主であり、黒羽のような小さな遊郭が残っていたとは珍しい。

1951(昭和26)年には6年前の1945(昭和20)年11月11日に行方不明となった当時遊郭関係者の白骨死体が発見された、という記事があるから戦後間もなくは遊郭が残っていたと言える。

しかし売春防止法により栃木県の赤線は1957(昭和32)年2月28日までに全て廃止となった。廃止寸前の「下野新聞」には

『現在県下には宇都宮、栃木(合戦場と思われる)、藤原(川治、鬼怒川)、黒羽=以下赤線=』

と書かれており、この記事により黒羽が赤線として残っていたことが分かる。

遊郭跡地を歩いている間は誰一人として遭遇せず静かすぎた。風景もこれまた寂し過ぎるので、遊郭があった頃に当時の新聞に載っていたゴシップ記事をひとつふたつ紹介し、遊郭があった頃の賑やかさを想像しながらこの記事を終えようと思う。

1.老人5人の女郎買い なんと2日間も

黒羽新地富貴楼に70才の爺さんを筆頭に50才以上のオッサンが女郎買いをし、2日間もどんちゃん騒ぎをし、孫ぐらいの年の女郎を相手にしお楽しみ。最後は「爺やんまたおいで」と女郎に見送られムニャムニャ言いながら帰って行ったという。

以上、「神武以来の珍事」と記事には書いてあった。今は70だろうが80だろうが風俗に行く爺さんはいて、そこまで珍しくはないことではあるが。

原文は以下の通り。

『老人5人の娼妓買 2日間流連す

此の程那須郡黒羽新地富貴楼に同地遊廓開始以来曾て見た事も聞いた事もなき70古来稀なる老人を筆頭に天命を知る50以上の老てますます壮者を凌ぐ精力旺盛の両郷村の昔の若衆5人ぞろぞろと登楼しよくも遊んだり2日の流連老の皺掻きのばし曲がれる海老腰掻い撫で撫で孫と見る敵娼側に相好崩して浮いた浮いたの先がない寿命をうんと伸して爺やんまたお出での送り言葉にムニャムニャ帰りし神武以来餘りない珍事なれば姓名年齢を記すべし但し本名は孫子の手前甚だ恐縮至極にあるければ老人連の爲め筆者粋を利かし変名として気永短太郎(51)敵娼相染、黒鍋煮造(49)同静江、芋汁菜之助(70)同色香、赤猪黒之丞(52)同桂木、海老浦此次郎(47)同松春以上5老人の年齢を合算すれば271才平均54才強となる壮んなる老人団もあったものなり』

出典:「下野新聞」1911(明治44)年2月6日

もうひとつ記事を紹介。

2娼妓の怒鳴り込み


黒羽遊郭井開楼の娼妓(娼婦・女郎のこと)、源氏名(風俗業界ネーム)操さんは、誓紙を交わして結婚の約束をするほどラブラブな男がいた。

ところが操さんの知らぬ間に男は別の女とくっついて結婚式を挙げているではないか!

操さんはブチ切れて遊郭を飛び出して結婚式現場に怒鳴り込んだが全く相手にされず、すごすご帰るところをポリスに見つかり怒られちょっと罰金も取られてしまった、とのことでしたとさ。

以上、面白おかしく記事には書いてあるが、操さんにとっては気の毒な結末に。娼妓は勝手に遊郭の外に出ることが許されなかったのである。いつの世も男と女は騙し騙され。

原文は以下の通り。

『女郎怒鳴込む

那須郡黒羽町字前田遊廓井開楼事井上鐵乃助方抱娼妓操事宮城県川俣村生川俣君江(23)はかねて己と夫婦誓紙を取替はしたる同郡川西町大字蜂巣渡邊喜一郎が親戚某の媒酌にて嫁を貰ひ2日華燭の典を挙ぐるを聞きてかっとなり主人に無断で同楼を飛び出し前記渡邊方に至り大に啖呵を切ったるも相手にする者なきよりすごすご帰りしを川西署にて聞込み4日君江は同署に喚出されお目玉頂戴の上若干の科料に処せられたりと』

出典:1914(大正3)年4月5日「下野新聞」

白金はシロガネーゼ、赤羽はアカバネーゼと呼ばれるように、黒羽もクロバネーゼと呼ばれるのだろうか。なんちて。

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2021-01-24(Sun)

栃木県栃木市大平町富田遊郭跡地を歩く

栃木県の南部にある栃木市大平町富田(とみた)。

ここの最寄駅はふたつ。東京から宇都宮線で北上し、小山駅で両毛線に乗り換えるJRの「大平下(おおひらした)駅」と、同じく宇都宮線の栗橋駅で東武日光線に乗り換える東武の「新大平下(しんおおひらした)駅」がある。どちらもだいたい2時間ぐらいで着く。

富田遊郭
新大平下駅では嵐がお出迎えしてくれる。駅東口を降りるとすぐ日立のエアコン工場があるのだ。

そして西口を降りてすぐ、ここにかつて遊郭があった。 富田に遊郭があることを教えてくれたのは母である。母は富田で育った。ある時この近くを車で走っている時に

「お母さんが子供の頃までね、この辺に遊郭があったんだよね。子供だからよく分からなかったけど、なんか独特の雰囲気があった建物と空気だったね」

ふと母が言ったことがきっかけでその歴史を調べてみる気になった。図書館等で調べてみると、確かに遊郭が存在したことが記録されていた。



1.遊郭のルーツ、例幣使街道の宿場町富田宿



江戸時代に「例幣使(れいへいし)街道」という日光へ行く街道が整備され、富田には「富田宿」という宿場町が出来た。

街道沿いには飯盛旅籠(めしもりはたご)と呼ばれた宿が並び、そこには飯盛女(めしもりおんな)という旅人の身の回りの世話をする、という名目で性的サービスも行なう女郎さんが数多くおり、「富田女郎衆」と呼ばれるほど栄えていた。飯盛旅籠≒女郎屋≒売春業と考えてよい。これが遊郭のルーツである。

当時、宿場町は幕府公用の旅人の世話や馬の手配等の負担義務があり、その費用捻出のため売春業は公認・または黙認されていた。

富田宿

富田宿
現在も富田宿だった街道沿いには宿場町を思わせる古い建物がいくつか残っている。

富田宿
ここは街道裏の川。地元の古老によると、苛酷な職場環境に耐えられなくなった飯盛女が身を投げたりしたらしい。と言ってもドブ川程度の深さしかなく、話が盛られているのか、それとも昔はもっと深かったのか。

2.遊郭の設置



明治時代になると売春業に関する新たなルールが整備され、女郎屋は「貸座敷」、女郎さんは「娼妓」と呼ばれるようになる。そして風俗店が街中に堂々とあるのは風紀的によろしくないという考えから、貸座敷は街の中心部から移転させられ、隔離された一角にまとめられた。これが「遊郭」である。

「栃木県警察類典」(1901年 明治34年)に、明治32年9月に定められた「遊郭設置規定」が記されており、

「第二条 遊郭ハ左ノ地域内ニ置ク」

と、この富田が指定された地域のひとつになっている。

3.遊郭の規模



富田に遊郭が出来たのは当時の新聞記事等から1908(明治41)年頃と考える。

遊郭が出来る前、明治時代の初めごろは貸座敷10軒程度、やがて少しずつ少なくなり遊郭時代には3軒だった。

データを見てみると

「栃木県統計書」(1886年 明治19年/1892年 明治25年)

1882(明治15)年 貸座敷9軒 娼妓9人
1892(明治25)年 貸座敷5軒 娼妓23人

「栃木県警察統計表・明治35年」(1902年)

1902(明治35)年 貸座敷5軒 娼妓26人

「栃木繁昌記 : 名勝旧跡地理沿革」(1899年 明治32年)には

「貸座敷は五軒ある。朝日楼、饅頭屋、境屋、福島楼、増田屋の如きだ。さて何楼がよかろう、朝日屋がよかろう。揚代は五十銭これは安値だ。ところが女はいずれも新潟県だ。どうりで薄情だ(コレは失敬)」

と具体的な店の名前や料金、娼妓の出身地まで書かれた体験レポがあって面白い。

「全国遊郭案内」(1930年 昭和5年)では現在足利市の両毛線富田駅界隈と間違えられて紹介されていていい加減な感じであるが、貸座敷3軒娼妓は18人くらい、と紹介されており、その3軒とは先程の「栃木繁昌記」にあった5軒のうち、朝日楼、福島楼、堺楼(境屋と同一と思われる)である。

近隣の堀米遊郭(佐野市)や戦後赤線として残った合戦場遊郭(栃木市都賀町)と比べても小規模で、安直で庶民的で近郷在住のお客さんが多かったという。

4.いつまで遊郭があったか



遊郭がいつまで存在したかはハッキリとは分からなかったが戦後までは持たなかったのではないだろうか。地元の新聞「下野新聞」には1936(昭和11)年に記事が載っているのが最後である。

電話帳を調べてみると、1925(大正14)年の職業別電話帳には「貸座敷業」の欄に富田3軒の電話番号と屋号、楼主名が記載されていた。

そして1942(昭和17)年の電話帳も調べてみると、これは職業別電話帳ではないのだが電話番号と名前の他に住所や職業欄もあった。1925(大正14)年の3軒のうち同じ電話番号と同じ楼主名が1名だけ記載されていたが、職業欄に「貸座敷」記載がなく空欄になっていた。貸座敷の場所に住み続けてはいたが既に廃業していたのではないだろうか。

5.遊郭廃止後の赤線・青線時代



遊郭およびその根拠となる公娼制度は戦後廃止された。しかし「赤線」「青線」と呼ばれる売春地帯が生まれた。

「赤線」とは遊郭跡地や盛り場などを中心に「特殊飲食店」として営業許可を得た売春業者が店を出すことを許可、もしくは黙認された地、「青線」は特殊飲食店ではないく一般の飲食店の営業許可だけで実態は売春店、という業者達の営業地帯を指す。

赤線・青線はその後売春防止法の施行により廃止となる。栃木県内の赤線・青線は1958(昭和33)年2月28日までに全て廃止となった。当時の新聞によると廃止1年前には富田を含む大平村内には5軒残っていた。母が子供の頃は既に戦後だったので、前述の母の記憶もこの5軒のうちどこかが残っていたものなのではいだろうか。母はとある家を指して

「ここの人がね、富田最後の女郎さんを見受けしたんだよ」

なんてことも話してくれたが、この女郎さんというのも赤線(青線)の酌婦(実質売春婦)だったのかもしれない。

ちなみに栃木県内ではどこが赤線でどこが青線だったか、と気になり調べてみたのだが、警察による特殊飲食店登録業者の統計資料みたいなものあれば確定できるのだが見つかっていない。そこで当時の赤線青線に関する新聞記事をいくつかまとめてみると以下のようだったのではないかと推測する。

赤線

・宇都宮市新地遊郭(亀廓)跡地
・宇都宮市剣宮(現二荒町あたり)・中河原(現中央5丁目あたり)エリアで、昔から「魔窟」と呼ばれていた盛り場
・宇都宮市旧旭町1丁目(宇都宮城址公園北東の現中央3丁目・本丸町の一部)エリア「本丸花の街」(空襲で焼け出された魔窟の業者達が戦後移転)
・宇都宮市徳次郎遊郭跡地(たぶん)
・日光市藤原町鬼怒川温泉・川治温泉(花の町・京町など温泉歓楽街)
・大田原市黒羽遊郭跡地(たぶん)
・栃木市合戦場遊郭跡地

青線

・上記以外の栃木市、佐野市、足利市、那須町、日光市藤原町、小山市、那須塩原市塩原、真岡市等の盛り場

富田はたぶん青線、もしくは青線ですらなかったモグリ業者エリア(白線)だったかもしれない。もし富田が青線なら赤線青線を説明する記事の中に「富田」もしくは「大平村」(当時富田が属していた村)の記載があってもよいのだが見付けることは出来なかった。

6.遊郭はどこにあったか



遊郭の場所の特定は難しく、地元の郷土資料館の方に聞いても分からず、母が地元の古老に聞いてくれた場所は以下の通りである。

富田遊郭
「この通り(赤線が引いてあるところ)が大門通りって言ってね、この通りを挟んでぽつりぽつりとお店があったんだってさ。そういえばお母さんもこの辺のことを大門って言ってたよ…」

大門とは吉原大門のように、遊郭には付き物の入口の建造物である。早速行ってみたところ、

富田遊郭
大門通りの脇に「例幣使道野州都賀郡富田宿 如意輪寺条道大門通之碑」と刻まれた石碑があった。碑のすぐそばにある如意輪寺によるもの。

お寺が大門通りの碑を建てていることから大門とは遊郭の大門ではなくてお寺にあった大門のことではと考え直した。
富田宿
現在の様子。遊郭の面影などはなにひとつ見つからない住宅街であった。遊郭が廃れてから半世紀以上経ってるのだから仕方がない。

ただ僕はここが遊郭跡だと確定出来ないでいる。更に資料を調べていると実は違う場所なのではないかという根拠が続々と出て来た。

富田遊郭
まずは昭和初期の地図。富田の「田」の左にある少し黄色くしたところ、点線で囲まれているエリアがあり、いかにも遊郭を表している…ように見える。ここが遊郭だとすると、

富田遊郭
現在の地図に落としてみるとこうなる。先ほど母が大門通りと言った所が赤い線のところであるが、実は黄色い線の通りが大門通りなのではないだろうか。大門通りの碑の場所がここなので大門通りがどっちでも解釈出来てしまい悩ましい。

富田遊郭
こちらは国土地理院のサイトで見れる1948(昭和23)年の空中写真。この四角の区画と十字路で「田」みたくなっているところがいかにも遊郭。

決定的なのは前述の1942(昭和17)年の電話帳に乗っていた元オーナー。住所の記載があった。

富田遊郭
それがここであり、50年程前の住宅地図を見て見ると、元オーナーと同じ姓の家が十字路の角にあり、もう1つの角の家も1925(大正14)年の電話帳に乗っていた別のオーナーと同じ姓であった。

また、1931(昭和6)年の「下野新聞」に東武線新大平下駅(地図右側の駅)が新設される際の記事があり、駅の敷地について「遊廓東側敷地1,800坪を地元民が寄付する事に確定し」とあり、まさにこの地の真東側に駅が位置しており、最近ではここが遊郭跡だったのではという考えが強い。そして母が教えてくれた通り沿いの記憶は、遊郭ではなくて戦後の青線(白線)業者では、と考えることも出来る。

富田遊郭
現在のこのあたりの様子。何度も通っていたのだが写真を撮っていなかったためグーグルストリートビュー。十字路を北から。右奥の黒い車があるあたりが電話帳に住所が載っていて、約50年前の住宅地図には元オーナーと同じ姓の家があった場所。

富田遊郭
十字路を西側から。左奥の鬱蒼とした木々の中に、

富田遊郭
何か古い物置のような建物が残っていた。何度もこの前を「あやしいけどさすがに貸座敷じゃないだろう」と思いつつ通り過ぎていたが迂闊であった。

富田遊郭
その反対側。もう1軒のオーナーと同じ姓のお宅がある場所。古い車庫が趣きがある。この奥に少し大きな家があって、ちょっと妓楼っぽいなと思ってしまったが、現在もお住いのようなので写真を載せるのは控える。

最後に、富田は現在は「とみた」だが昔は「とんだ」と呼んでいたらしい。実は僕のガチ地元なのだが全く知らなかった。「富田女郎衆」は「とんだ女郎衆」と呼んだわけで、なんだかすごくブッ飛んだ姐さん方みたいな感じである。

とんだ盲点であった。なんちて。

【参考文献】
・下野新聞…下野新聞社
・栃木新聞…栃木新聞社
・栃木の道…下野新聞社
・大平町誌…大平町教育委員会編
・栃木県警察統計表…栃木県警察部
・栃木県統計書…栃木県編
・栃木繁昌記…柴田博陽著
・全国遊廓案内…全国遊覧社編
・かな半旅館(志鳥正樹家)文書

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