2020-09-21(Mon)

xiangyuライブレポート『#横浜文化プログラム2020』横浜ランドマークプラザ 2020.09.20

9月から11月にかけて横浜市内各所で行われるオールジャンルの音楽&ダンスのステージイベント「横浜文化プログラム」。

そのうちの9月20日、横浜ランドマークタワー麓のショッピングモール・ランドマークプラザでのイベントのトリがxiangyuちゃん。

大きな吹き抜けの中に設けられたイベントスペース。観覧自由のフリーライブであるが、観覧エリアに入る際には体温チェックと手の消毒が必要。

サウンドプロデューサー・ケンモチヒデフミさんとマネージャー・Dir.Fさんもおり、ライブ前に音のチェックをされていた。関係ないがFさんの髪がめっさ伸びていた。

ライブは定刻にスターt-。xiangyuちゃんは

xiangyu
「横浜出身のxyangyuです!」

と登場。地元横浜でのライブは去年6月、タワーレコード横浜店での「はじめての○○図鑑」リリースイベント以来であろうか。


山に登る楽しさを歌った「Y△M△」(ヤマ)。

ライブハウスだと暗いことが多いが明るいオープンスペースで、また、吹き抜けだから音が響いてなんだか荘厳な感じがするし、またケンモチさんが音源とは違ったアレンジをちょこちょこ入れて来るのでカッコいいのである。

脇で観ていたびっ子がガンガンに踊っていたのが印象的。

xiangyu
ライブも佳境、ついxiangyuちゃんも僕らもいつものコールアンドレスポンスをしてしまいそうになるが、ライブ冒頭で司会のお姉さんが声援禁止と言っていたのを思い出し、

xiangyu
「完全に声出しちゃいルール忘れてました~!」

とxiangyuちゃんも我に返って、僕らは手を振ったり手拍子してそれに替える。このご時世でのライブの在り方を探りつつ楽しむんである。


ライブはああっという間に最後の曲「BBIISPP」。甘美な気怠さが漂うメロウな曲で締め括るライブの終わり方は好きである。

xiangyu
xiangyuちゃんは終始観ているお客さん達に笑顔で手を振ったり、踊ってるちびっこに声をかけたり、地元横浜だということで

「私、泉区なんですけど、相鉄線の人いますか!いたー!えへへ」

などとローカルネタで盛り上がったりしており、地元ならではのテンションであった。あと↑の写真のケンモチさんの足が上がってるのがかわいい。


ライブ後に司会のお姉さんとしばしトーク。いつもは裏方でステージ上で話すことはないケンモチさんも珍しくxiangyuちゃんがスカウトされたきっかけ等のエピソードを話しており、フリーライブなのがもったいないぐらい楽しいライブであった。

なお、「香魚荘827」でのクラウドファンディングのリターンは、現在鋭意制作中であり、なにぶんxiangyuちゃんひとりでやっているのでちょっと遅れてしまうかもしれないが気長に待ってて欲しいとのこと。

ライブ帰りにちょっと一杯やってから根岸線に乗り、みなとみらいの夜景を眺め、フリーライブの余韻を楽しみつつ帰ったのであった。

街の明かりがとても綺麗ねヨコハマ、フリーライブヨコハマー。なんちて。

【セットリスト】

1.Go Mistake
2.Y△M△
3.プーパッポンカリー
4.菌根菌
5.home
6.BBIISPP

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2020-09-06(Sun)

xiangyuライブレポート『進化的に安定な戦略 その2』表参道WALL&WALL 2020.09.05

表参道交差点すぐそばのイベントスペース「WALL&WALL」でのxiangyuちゃんライブ。

入口で体温チェックと住所氏名電話番号を登録後フロアに入る。

珠鈴
xiangyuちゃんの前に同じつばさ所属の珠鈴(しゅり)ちゃんもライブ出演しており、ケンモチさん曰く

「今日は共食いですね」

共演、と言いたかったのだろうか。ケンモチさんの言葉選びは歌詞にも表れているようにいつも面白い。

xiangyu
サウンドプロデューサー・ケンモチヒデフミさんとマネージャー・Dir.Fさんこと福永さん。画像荒くてすみません。


ライブは「ピアノダンパー激似しめ鯖」より。タイトルそのまんま、ピアノダンパーってしめ鯖に似てるよね、という曲。VJがますますシュールになっている。

僕はこのところ2回も続けてxiangyuちゃんライブに間に合わない失態を犯しており、ライブの最初から観れるのは久しぶり。


なので最新曲「Y△M△」(ヤマ)は今日やっと初めてライブで観ることが出来た。xiangyuちゃんの山好きなのだ。山に登って食べるおむすやカップヌードル、飲むコーヒーの美味しさはどんなものであろうか。高尾山ですら自分の足を使わないで登る僕。




ライブ中盤の超速いシンゲリと呼ばれるジャンルの曲「ヒジのビリビリ」と最後の曲「BBIISPP」。めちゃくちゃ激しい曲もあり、メロウな曲もあり、いつも思うのだが素晴らしいライブだった。

xiangyu
ライブ後に撮らせてもらった写真。わざわざ明るいところ探してくれて優しい。あと後ろで両手サムズアップして「イエーイ」みたいになってる福永さんが地味に気になる。

xiangyuちゃんは初めてライブをして2年が経ったそうだ。初ライブは2018年9月に下北沢のERA。福永さんにそのことを話すと

「初めてはERAにしてるんです」

とのこと。水曜日のカンパネラも初ライブはERA。新人にとってやりやすいハコなのか、福永さんのゲン担ぎなのか。

xiangyuちゃんの初期のライブには「やばい山」という曲があった。マッキンリーとかカンチェンジュンガとか世界最高峰の山の名をラップする曲であったが最新曲「Y△M△」とテーマが被る。

しかしこれはxiangyuちゃんの一貫した登山好きによるものである。これからも登山を続けて新しい山や大自然にまつわる曲を作り続けてほしい。xiangyuちゃんはこれから3年目。

山の上にも3年。なんちて。

【セットリスト】

1.ピアノダンパー激似しめ鯖
2.Y△M△
3.プーパッポンカリー
4.菌根菌
5.ヒジのビリビリ
6.秒でピック白
7.home
8.BBIISPP

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2020-08-23(Sun)

栃木県足利市福居遊郭跡地と風俗街と青線跡地を歩く

「福居遊郭」は現在の足利市の南部、福居にあった。

そのルーツは江戸時代、日光に続く例幣使街道(れいへいしかいどう)の宿場町八木宿と隣の梁田宿にあった飯盛旅籠(女郎屋)にある。

旅人達のお世話をするという名目で雇われた飯盛女と称する女郎さんが性的なサービスを行なっていた。これは幕府から容認または黙認されていたものだった。

明治時代になって政権や法律は変わり、エッチなお店についての考え方も変化し、女郎屋さんは「貸座敷」、女郎さんは「娼妓」と呼ばれるようになり、また、さすがに街中に風俗店が堂々とあるのはまずくない?ということで街の中心から少し離れたところに女郎屋をまとめて移設しよう、ということになった。

これが「遊郭」である。

福居遊郭」
福居遊郭があった場所はこのへん。上の方が北で、渡良瀬川を渡ると足利市内である。

地図の「例幣使街道」と書かれているあたりが「八木宿」で、遊郭は1908(明治41)年4月3日、旧暦の桃の節句に合わせて開業した。

福居遊郭」
八木と梁田から移転してきた貸座敷。最大で8軒あった。
(日下部高明、菊地卓著『足利浪漫紀行 : 知られざる歴史を訪ねて 新訂)

大富楼、金槌楼、高島(嶋)楼、第二高島楼、中井楼、萬花楼、冨士楼、魚(屋)楼。娼妓数は最大で90名ほどで、これは栃木県内の遊郭としては、宇都宮は別格で大きいとしてそれに次ぐ堀米遊郭(佐野)、合戦場遊郭などの2番手クラスの規模であり、さぞ賑やかだったろう。

福居遊郭」
また、春は桜並木(下川耿史,、林宏樹著『遊郭をみる』より)、夏は盆踊り、秋は各貸座敷が競って菊人形を飾り付け、それぞれ大いに賑わったという。

しかし時代が下るにつれだんだんと寂れていった。1927(昭和2)年には不況による営業不振を理由に当時徴収されていた「娼妓賦金」の撤廃を担当局に陳情している。

また、1930(昭和5年)には1年以上税金を滞納していたため強制執行を食らっている。

一方で福居の少し北にありこのあたりの中心都市・足利では乙種料理店とよばれるモグリの売春店が市内の至る所にはびこり風紀が乱れた為、きちんと取締れる風俗指定地を足利市街地内に作り、そこに福居遊郭を移転させよう、という運動も上がったが福居側・足利側両方の反対が多く実現しなかった。

おそらく戦後までは続かなかったのではないだろうか。

福居遊郭
現在の遊郭跡がこちら。おそらく上記の桜の写真のあたりだと思うが全く普通の住宅街である。

福居遊郭
遊郭らしいものは何一つない。

福居遊郭
遊郭につきもののお稲荷さんをつい撮ってしまったが。

それもそのはずで、1948(昭和23)年にこの地で起きた殺人事件の際には

『元「福居遊廓」跡、今は豪壮な女郎屋の建物もことごとく取りこわされて一望畑となり、唯1つの当時の名残をとどめる石造りの大門(後略)』

と書かれており、戦後間もなくでも既に大門しか残っていなかったのだった。

福居遊郭跡では何も得られなかったので現役の風俗店や足利の中心部を廻ってみることにする。

福居遊郭
福居遊郭近く、国道50号線沿いにあるこのビル。通称「カワチビル」と呼ばれており、全階風俗店が入っていると評判の風俗ビルである。

なお「カワチ」とは栃木県内を中心に多店展開するドラッグストアチェーンである。単にそのうちの1店がこのビルの隣にあって看板を出しているだけでカワチが風俗店を出しているわけではない(当たり前)。

福居遊郭
裏側から。

福居遊郭
ふたたび正面。色褪せた店の看板たち。

福居遊郭
3階から上はすべて「マッサージ」店。こういうお店はマッサージはおまけ程度で、フトン1枚敷けるぐらいの小さなヤリ部屋で40分1万円ぐらいでエッチするんである。

2階が空白になっているが看板にあるフィリピンパブ「アピール」が入っていた。1階はピンサロである。福居遊郭の伝統を受け継ぐ(?)風俗施設がここにあった。

福居遊郭
カワチビルを後にする。このあたりは足利市の南部、郊外部にあたるのだが、ショッピングセンターや大きな駐車場を備えた郊外型店舗が立ち並び足利市中心部より人や車の流れが賑やかである。

福居遊郭

福居遊郭

福居遊郭
そしてとにかくスナックビルが多い。このへんが現在の盛り場なんですな。

福居遊郭
「DA・YO・NE」でヒットしたした人たちの次の曲が「MAICCA(まいっか)」だったな。

福居遊郭
メイド喫茶発見。イベントで花魁デーとかどうでしょう。

福居遊郭
足利市中心部から渡良瀬川を挟んで南側にある「足利スチームバス」。現役のソープランドである。在籍のお姉さんは年齢層高めとのこと。

福居遊郭
駐車場がほぼ満車で驚く。

福居遊郭
狭き穴を目指すスチームバスと狭き門を目指す赤門セミナーと。

福居遊郭

福居遊郭
そしてついに足利市中心部の市街地に到着。いきなり廃墟感が。

足利は室町幕府を興した足利氏発祥の地、また中世からあった「足利学校」などの歴史があり、また近代は織物業が発達、工業都市として栃木県では長らく宇都宮に続く第二の都市として栄えた。

しかし現代は洋装の時代になり織物業は衰退、人口も減少傾向であり、さきほど通って来た郊外部よりは古びた街並みが目立つ。区画整理がされないまま残っている路地裏も多く、そのあたりを中心に回ってみることにする。

福居遊郭

福居遊郭
両毛線足利駅から出て西側あたり、両毛線と並行して進む通1丁目~2丁目付近の道。ここにも南銀座名店街なるスナックビルが。しかし郊外部のスナックビルは現役だが中心部のそれらは空きテナントが多かったり廃墟っぽいものが多い。

福居遊郭
「音拍人(インパクト)」。この当て字好きだなー。

福居遊郭
「祇園」「赤坂」。都会の花街に憧れる直球な店名。

花街といえば、足利には遊郭こそなかったが前述の通り「乙種料理店」(モグリエッチ店)が市内各所に点在、また芸妓も古くから盛んで既に1894年(明治27)年2月3日の下野新聞には、どこの置屋の誰々という芸者がいい、みたいな芸者レポが載っている。

福居遊郭は前述のとおり終戦を待たず消滅してしまったようだが、戦後の足利市街には「青線」が残った。

「青線」とは、戦後公娼制度(遊郭等の売春営業に関わる決まり)が廃止された後に黙認されたエッチ店、もしくはエッチ店が集まるエリアを指す言葉である。

一方で「赤線」は遊郭等の昔から政府に公認されていたエッチ店が、戦後「特殊飲食店」として登録された店、またはそれらが集まるエリアを指す。

栃木県内では「赤線」は宇都宮の新地(宇都宮遊郭)や宇都宮中河原、宇都宮本丸花の街、合戦場遊郭、鬼怒川・川治温泉、黒羽(遊郭か)などの遊郭由来の地やそれに準ずる昔から栄えていた花街が指定されていたが、足利は「青線」だった。

その場所は通1丁目、2丁目、永楽町、雪輪町、巴町…市街地のかなりの範囲に点在しており、これから僕が歩いて行くところもほぼそれに該当する。

福居遊郭
青線とは関係ないがあまりにもカッコ良かったので。名糖牛乳。

福居遊郭
巴町近辺に移る。グッチのパチモン感と「麻本呂婆」の自虐感。自ら「婆」を入れるセンス。「スナックブス」という店を見たことがあるが、そのセンスに近いものが。

福居遊郭この看板のすぐ下から細い路地が走っている。

福居遊郭
奥に進むとまだスナック。

福居遊郭
かすれて消えそうな「グッチ」の奥に女体像。

福居遊郭
弄ばれたのか色素沈着した右B地区。乳毛がボーンにも見える。

福居遊郭
おおっ。扉に「カフェー」の鑑札が。宇都宮、矢板、佐野に続いて発見することができた。

福居遊郭
また別の細い路地へ。

福居遊郭
あれ、「すなっく華路」ってさっきの路地で見たような。こちらに移って来たのか。

福居遊郭
ダニー・レイといえばジェイムス・ブラウンの名MC。音楽バーとかなのかなあ。

福居遊郭」

福居遊郭
路地を抜けても味のある建物たちが至る所に点在。

福居遊郭
そしてまた路地。

福居遊郭

福居遊郭
路地の中にぽっかり空き地があり、それを取り囲むように味のある建物たち。

福居遊郭
「盛り場モデル地区 暴力を締め出す力は町ぐるみ」。かつては強引な客引きとかボッタクリとか凄かったんだろうな。兵どもが夢の跡。

福居遊郭
打ち捨てられた「お茶漬け 萩」看板。

福居遊郭
「スミレ美容室」は明かりだけは灯っていた。

福居遊郭
細い路地から抜け出してきたところにあったのがこの看板。実際は必要とされる土地は容赦なく再開発される。足利は僕が見て来たとおり、これだけ細い路地が残っていたが、それはこの看板を立てた人の抗議活動によるものではなく、残念ながらその必要がなかったことによるものだろう。

福居遊郭
路地を抜けるとまた味のある建物が。アリの巣の断面図のようなかつての飲み屋さん。

福居遊郭
かつては立派な料亭か何かだったのではと思うが詳細分からず。

福居遊郭

福居遊郭

福居遊郭
井草町近辺。この建物は元芸妓置屋と思われる。1955(昭和30)年、この住所にあった芸者置屋が17才の少女を誘い芸者にさせ、「芸者は春を売るのが商売だ」と売春を強要させ捕まった…という記事が「下野新聞」にある。

建物の雰囲気的に当時のものと思われるがどうだろうか。

福居遊郭

福居遊郭

福居遊郭

福居遊郭

福居遊郭

福居遊郭
雪輪町に残る旧「足利東映」跡地。映画館単独の建物ではなく、スナックビルとの複合施設であることが分かる。どんだけスナック好きなの。

福居遊郭

福居遊郭

福居遊郭
最後に大町にある割烹「文楽」。かつては「御料理 貸席 文楽荘」として地元新聞紙に広告を出していた。温泉マークがあるということは連れ込み宿だったのだろうか。

足利市を含めた栃木県内の赤線青線業者、すなわち売春業者は1958(昭和33)2月末日までに全業者が廃業届を提出した。売春防止法の完全施行がその年の4月だったので栃木県では1ヶ月先行したのだった。

表面上は売春業者はなくなったとはいえ、もちろんすべての売春がなくなったわけではないが、これまで見て来た足利の路地裏に残る風景は、その当時の賑わいを思い起こしたい僕にとって貴重な遺構である。

福居遊郭
あっ。ダニー・レイが街中に移転してた!

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2020-08-18(Tue)

栃木県佐野市堀米遊郭跡地と佐野市街を歩く

現在は栃木県佐野市に属する堀米町にあった堀米遊郭、および佐野市の中心部を訪ねてみた。

まずは堀米遊郭。

そのルーツは江戸時代、日光に続く例幣使街道(れいへいしかいどう)の宿場町犬伏宿にある。犬伏とは堀米の隣町の名前だが、犬伏と堀米のふたつで犬伏宿が形成されていた。

当時の宿場町とその周辺の村は助郷制度(すけごうせいど)により幕府公用の旅人の荷物を次の宿へ送り届けることが義務付けられており、各宿の負担にて一定数の人馬を常備しておかなければならなかった。

この負担が大きく本業ではまかないきれないため、お役人に訴えて今でいう風俗店を始めたところが多かった。

すなわち、旅人のお世話をする飯盛女(めしもりおんな)という名目でエッチなサービスをする女郎さんを雇う飯盛旅籠(めしもりはたご=女郎屋)である。

明治時代になって政権や法律は変わり、エッチなお店についての考え方も変化し、女郎屋さんは「貸座敷」、女郎さんは「娼妓」と呼ばれるようになり、また、さすがに街中に風俗店が堂々とあるのはまずくない?ということで街の中心から少し離れたところに女郎屋をまとめて移設しよう、ということになった。

これが「遊郭」である。

堀米遊郭のオープンは1908(明治41)年だが、それ以前の堀米の貸座敷数と娼妓数を確認してみたい。国立国会図書館デジタルコレクションで見れる「栃木県警察統計表」に載っていた数字である。

1882(明治15)年は貸座敷24軒、娼妓数は204名、1892(明治25)年では14軒、105名。10年で軒数娼妓数共に半減に近くなっているが、これでも栃木県内ではかなり多い方である。

栃木県内で一番の都会といえば昔も今も宇都宮がブッチギリであるが、宇都宮の遊郭「亀廓」は1882年では貸座敷60、娼妓159で、1892年はそれぞれ32、98である。

つまり貸座敷数は宇都宮の方がはるかに多いのに、娼妓数は堀米の方が多いのである。何か集計のマジックがありそうだが100年以上前のことなのでさすがにそれは分からない。

ともかく堀米は宇都宮に次ぐくらいの大きな遊郭であったと言える。

堀米遊郭のオープンは前述のとおり1908(明治41)年だった。その竣工式が4月18日に行われ、。当時の「下野新聞」にそのレポが書かれている。式が始まるのは12時に始まると聞いていたのに15時だったとか、いきなり花火をぶっ放して参加者の度肝を抜いたとか、来賓への食べ物が少ないとかディスリ気味の記事が面白おかしく掲載されていた。

遊郭誕生直後のラインナップは以下の通り。貸座敷数9楼である。

冨田楼
若亀楼
亀 楼
安田楼
松吉楼
藤本楼
福田楼
新肴楼
本肴楼

堀米町遊郭」
場所はこのへん。JR両毛線・東武佐野線佐野駅から徒歩20分ほどであろうか。

堀米町遊郭
例弊使街道から遊郭を結ぶ道がS字クランクのように左右にくねっており、吉原の五十間道を思い出させる。

堀米町遊郭
ここが入口。


当時の写真である。「春は馬車に乗って」さんのツイートを引用させていただきました。

大門がしっかりと写されているが、先程の竣工式の記事には

「『堀米遊廓』と筆太に刻された大谷石の大門だが、大門といえば何處の廓で春夢まさに濃かなりとか何んとか粋な文字があるのであるがコレは亦野暮の骨頂」

などとディスられている。宇都宮と烏山の遊廓の門柱には、右に「春入翠帷花有色」、左には「風來繍閣玉生香」と刻まれており、このような対聯(漢詩)を入れるのが当時の粋だったのだろうか。

堀米町遊郭

堀米町遊郭
これがかつての「富田楼」もしくは「若松楼」のどちらかである。何故どちらかなのかは市の広報にこの建物の写真と共に

「当時の建屋も富田楼と若松楼の一部が残るのみとなってしまいました」

と書いてあるからだ。ということは当時の建物はもうあと1つしかないことになる。この建物の写真以外に古そうな建物といえば

堀米町遊郭
この建物しかない。こちらは道路に面しておらず全貌がつかみ辛い。しかし前述「富田楼」の楼主と同じ苗字の家の敷地内にある。ということはこちらが「富田楼」であり、

堀米町遊郭
こちらが「若松楼」か…とか他の人にはどうでもいいかもしれないがわりとこだわって考えてしまうのである。

堀米町遊廓

堀米町遊廓
遊郭のすぐ近くにある真光寺には、「哀悼の碑」という石碑がある。空気を読まない微妙なピカチュウとかドラえもんが気になるところではあるが、

「例幣使街道沿いの遊郭に生きた
女性たちの御霊が安らかなることを  
合 掌 
町谷町 ○○ ○ 
平成13年12月吉日  真光寺 建立」

というメッセージ。遊郭がなくなって久しい平成の世になってから改めてこの碑を建てられたお気持ちというのはどのようなものなのだろう。

遊郭がいつまであったかは分からないが、おそらく戦後までは残らなかったのではないだろうか。その代りに佐野駅前の中心街に特殊飲食店(青線)、すなわち遊郭じゃないけどエッチな店がどんどん出来、そちらが繁栄することになる。

そんなわけで堀米町遊郭探訪はこれぐらいにして佐野市街に移動する。僕は高校生ぐらいまでは佐野の街にたまに訪れていた。今でこそ駅前は区画整理されて綺麗になっているけれども、当時は駅前からゴミゴミしていて細い路地裏から飲み屋の看板が顔を覗かせていた。

当時の僕はそんな風景に魅かれながらも勇気が出ず行けなかったものだ。しかし今でもそのような場所は残っている。

佐野ラーメン大和
佐野ラーメン大和
佐野駅前に移動する前に昼飯。佐野ラーメン「大和」でラーメンと餃子。僕の地元の水に近いせいか一番好みである。スッキリ味の醤油スープ、もっちもちの青竹打ち麺、味わいたっぷりのチャーシュー、味玉も餃子もしっかりとうまかった。

腹ごしらえ後、佐野駅に向う。佐野駅と堀米遊郭の間ぐらいにある「若松町」と呼ばれる一帯。佐野駅のちょい東ぐらいのあたりである。

佐野市若松町
いきなりすごい飲み屋跡が出て来る。まるで手塚治虫のマンガ「ブラックジャック」で体中から葉っぱが大量発生した少年のようなビジュアル。

佐野市若松町
「愛鈴」とかいて「アイリン」と呼ぶ。なんだかフィリピンパブみたいな名前だがこれを覚えておこう。

佐野市若松町
ショートケーキのような、鋭く三角に尖ったスナック風の建物。

佐野市若松町
「カフエー」の鑑札がありテンションが高まった。

佐野市若松町
ふと細い路地があることに気付く。その奥には飲み屋の看板がオイデオイデしており、見逃すわけにはいかない。

佐野市若松町
ハートマークがめちゃくちゃポップだ。

佐野市若松町
こんな細い通りにも名前が付いている。しかも二条通りとか京都ばりに雅び。

佐野市若松町
先程路地の奥からオイデオイデしていた看板たち。

佐野市若松町
お店はここ。

佐野市若松町

佐野市若松町
その他路地裏に潜む建物たちの風景が凄い。建物の中でメトロン星人がちゃぶ台を前にあぐらかいてそうな感じ。

佐野市若松町
この三連の建物の△△△が三つ子みたいで可愛いなと思ったが…愛鈴!さっきあったよね!草にまみれた愛鈴と書いてアイリン!…と思ったら「金鈴」だった。

佐野市若松町
こちらの路地も素敵すぎる。

佐野市若松町
特に「きくの家」の建物からはご主人と思われる方が出て来て洗濯物を干しており、カメラを構えた僕を見てギョッとした表情ですぐに中に入ってしまった。あやしいもんじゃないよ、おいらベロってんだ、とか気さくにこの界隈の歴史などをうかがいたかったが、さすがにそこまで陽キャではなかった。お店自体はもうやってはいないようではあるが。

このように古い街並みだからといって誰もいないというのは誤りで、洗濯物を干しに出て来るとか、テレビの音が漏れて来るとか、この季節だとエアコンの室外機が動いているとか、「お盆休みします」の貼り紙だとか、僕のような物好きが訪れる遥か前から生活している人達の気配が感じられ、その人達と街並みに敬意を以て街歩きをしなければならない。

佐野市若松町
路地裏をうろうろしてちょっと方向感覚が分からなくなり「暖炉」の先を抜けると

佐野市若松町
立派な割烹店がある通りに出た。ちょうど変にうよんと曲がった電柱のそばから出て来た格好になるが、その電柱には

佐野市若松町
「花町」と書かれており華やかな街だったことが分かる。かつては芸者置屋もあったそうだ。

佐野市若松町
若松町を離れると、打って変わって西洋建築。竹澤外科院。

佐野市若松町
日本基督教団佐野教会。三角三角した屋根のカクカクさと丸みを帯びたエントランス・窓のふっくらさのコントラスト、淡いピンクと白の色合いがとてもかわいい。

佐野市若松町
高床式倉庫みたいなのが火事で焼け残った感じ、なんだこれ…と思って後で調べてみたら

佐野市若松町
佐野鋳造所のかつての工場の一部だった。そういえば「天明鋳物」は佐野の伝統工芸であった。戦国武将・松永久秀が所有していた茶釜「平蜘蛛釜」も天明産である。

久秀は当時仕えていた織田信長を何度も裏切ったのに、信長は「平蜘蛛をくれれば許してやる」と要請した。しかし久秀はプライドが許さなかったのか断って打ち壊しており、それほど価値のあった茶釜であった。

おもちゃの京屋
おもちゃの京屋。かわいい。

娘屋
スクールショップ娘屋。ブルセラ感あるが老舗の地元学校御用達の洋品店である。

佐野市伊賀町
伊賀町にもこのように細い路地から顔を覗かせる飲み屋さんがある。

佐野市伊賀町
ぎょうざの店一番。後ろに見える2階だけ渡り廊下みたいになってて、その下を路地が走るのを含めてすごい密度が高い路地裏風景であり感動。

佐野市伊賀町
しかもちょっと下がるとふすま1枚分ぐらいだけの塀があり「鈴木」。渋すぎる。

佐野市伊賀町
なんなんだこの通り抜けは…。

佐野市伊賀町
右を向くと壁面から木がニョキニョキと。

佐野市伊賀町
つきあたりのやはり飲み屋さんっぽい家の脇の戸が開いていた。ピンクの地面が気になったがさすがに私有地っぽいのでこの先には行けなかった。

佐野市伊賀町
もとは連れ込み宿かなと思ってしまう旅館。

佐野市伊賀町
またまた路地裏が僕を誘う。青い矢印が「ぬけられます」と言っている。

佐野市伊賀町
ここもまた非常に狭くて密度が高い路地裏。そもそも僕が伊賀町を歩いているのは1952(昭和27)年の「下野新聞」に特殊飲食店の繁栄ぶりが記されていたからだ。

『伊賀町だけで21軒、平均50名の接客婦がおり(中略)市署による風紀取締りの眼を抜けて狭い道路に客引きの女がはびこり、通行人の妨害をする』

とあり、客引きの女がはびこっていたという狭い道路とはここのことかな…などと想像しながら今でも客引きとすれ違ったりして、なんて思いつつ歩いていたところ

佐野市伊賀町
この椅子は…まさか現役店?ちょんの間とかコッソリエッチなことをしているお店では、入り口の脇にやり手ババアとかポン引きのおっさんが座っていて客引きしているんである。さすがにこの場所で今もやっている可能性はゼロだがこの日一番驚いた光景であった。

佐野市伊賀町
市役所近く。この通りがかつて「芸者横町」と呼ばれていた。現在のギオン通り。名前のわりにはこれまで歩いてきた街並みに比べて何のインパクトもなかった。やはり区画整理されて浄化されてしまったせいだろうか。

佐野市伊賀町
佐野駅北口方面に向かう途中にあった商家。

佐野市伊賀町

佐野市伊賀町

佐野市伊賀町
「ホテルワンスモア」跡地。僕が高校生ぐらいの時からあったラブホで、訳すと「ホテルもう一発」であり、なんてアホな名前なんだと思っていたら1度も行かないうちに閉店してしまっていた。残念なことである。

以上で堀米の遊郭と佐野の街の探索は終わった。佐野は空襲を逃れ、再開発も遅れているせいか路地裏がまだまだたくさん残っていた。

1943(昭和18)年に学徒出陣し、佐野で終戦を迎えた司馬遼太郎も「私の関東地図」で

『私自身、町育ちのせいか、佐野の露地から露地へ通りぬけるのが、たまらなく好きだった』

と記している。僕もそんな感じで街を歩いていた。

しかし1日ではとても廻り切れず、ワンスモアしたいものである。


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2020-08-15(Sat)

xiangyu・ケンモチヒデフミ「HUMAN POP special LIVE」渋谷WOMB 2020.08.14

xiangyu(シャンユー)ちゃんやケンモチヒデフミさんファンにはおなじみ、孔雀倶楽部ヴィジュアル担当のクワハラヨシユキさんの作品展にちなんだライブイベント。

xiangyuちゃんのライブを会場で観るのは4か月以上ぶりである。

開演に間に合わなかったのでまだライブで聴いたことがなかった最新曲「Y△M△」(ヤマ)は既に演り終わってしまっていた。

xiangyu
青白のヘッドバンドと赤いダイヤ柄がおしゃれである。ニコニコしながら跳ねるような激しいパフォーマンスを久しぶりに観れて感無量になる。


「プーパッポンカリー」。いつもならステージから降りて来てお客に混じって踊ったりするのだがさすがにソーシャルディスタンス。


「菌根菌」。後ろのケンモチさんがちょこちょこ音をアレンジしてくるのも心地よい。それにしてもズッドンズッドン爆音を全身に浴びることがこんなに難しくなるとは。


「BBIISPP」。だらしなく寝落ちして目が覚めた朝の歌。身体バキバキ喉イガイガ目シパ顔パンパン。やっちまったけだるさ感が曲調にも表れていて好きである。普段見落としがちな日常生活のひとコマを曲にしてしまうxiangyuちゃんの真骨頂。

xiangyu
ここ数ヶ月で我々の日常生活はすっかり変わってしまったがこの楽しさは変わらないでいてほしい。

xiangyu
ライブ後撮らせてもらったxiangyuちゃん。お疲れのところいつもありがとう。


イベントのトリはケンモチさんのライブ。沸騰沸くたぶん沸くでフロア沸く素晴らしいライブが1時間ほど。


久しぶりに観れたケンモチサンの足さばき。ケンモチさんもフロアまの真ん中まで来て踊ったりすることがわりとあったがこちらもソーシャルディスタンス。ソーシャルディスダンスと名付けたい。なんちて。

xiangyu
ケンモチさんもありがとうございます。

【xiangyuライブセットリスト】

1.ピアノダンパー激似しめ鯖
2.Y△M△
3.プーパッポンカリー
4.菌根菌
5.ヒジのビリビリ
6.秒でピック白
7.home
8.BBIISPP

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