
かつて茨城県つくば市にあった筑波遊郭は筑波山の中腹にあった。(筑波山のきれいな写真が撮れなかったので茨城県ウェブサイトの「いばらきフォトダウンロード」より借用)
遊郭というと黒塀で囲まれた区画の中に遊女屋がずらっと並んでいる…といったイメージがあるが筑波遊郭は特に整備した区画はなく、そのため遊郭内外を区切る壁や門のようなものはなかったようだ。厳密には遊郭ではないかもしれないが公娼制度に基づき正式に県から売春業を認められた地域であったことからここでは便宜上遊郭と呼ぶ。
そして筑波山の中腹という場所。何故そんなところに遊郭があったのか。まずは筑波山について簡単に述べることから始める。
1.筑波山とは
筑波山は茨城県の中央よりやや西部にあり、まわりが関東平野で他に高い山が少ないこともあり周辺の平野部に住む人にとっては目立つ山であり古くから信仰の対象であった。
西側に男体山(871m)、東側に女体山(877m)とよばれるふたつの頂上があり見る場所によっては上記画像のようにネコミミのような耳がツンツンしたシルエットになる。
筑波山には古くから花垣(かがい)という男女が集まり歌を詠み合い踊り合い性交を楽しむ風習があったという。万葉集に高橋虫麻呂が詠んだ歌がある。
『鷲の住む筑波の山の裳羽服津のその津の上に率ひて娘子壮士の行き集ひかがふ嬥歌に人妻に我も交らむ我が妻に人も言問へこの山をうしはく神の昔より禁めぬ行事ぞ今日のみはめぐしもな見そ言も咎むな〔嬥歌は、東の俗語にかがひと曰ふ〕』
(現代語訳:鷲の住む筑波の山の裳羽服津の、その泉のほとりに、つれだって女や男が集まり、歌をかけ合う嬥歌で、他人の妻に私も交わろう。わが妻に他人もことばをかけよ。この山をお治めになる神が、昔から禁じない事だ。今日だけは監視をするな。咎め言もするな。〔嬥歌は東国の方言でカガヒという。〕)
歌垣の時は細かいことは言いっこなし、自分はよその人妻と交わうし、自分の妻も他の男と交わうだろう、というみやびな乱交パーティーのようなイベントだったようだ。古代からこのような男女の性愛に関するおおらかな風習があった地にあとになって遊郭が出来るというのは偶然だろうか。
鎌倉時代には筑波山信仰が形成され、江戸時代になると筑波山が江戸の鬼門(北東)にあたることから徳川幕府はとくにこれを厚く信仰した。三代将軍徳川家光は知足院中尊寺の社殿改築を行い登山道の新設も行なった。六丁通り、現在では「つくば道」と呼ばれる通りがそれである。またつくば道の両側に家を建てさせ、これが登山者の宿屋になり、土産物屋、さらに遊女屋が出来てゆくようになる。
2.筑波遊郭の始まりは江戸時代
徳川幕府は工事の際に大工・石工・仏師他職人を江戸から連れて来ていた。彼等および近在の村人らにつくば道沿いの土地と家を無償で与え住ませ門前町を形成・発展させた。この中から宿屋、土産屋などが生まれ、遊女屋も出来るようになる。これが遊郭の起こりである。
江戸時代は筑波山の見える関東各地を中心に筑波詣でが盛んになり、参拝後の精進落としとして若者達を中心に遊女遊びが人気となった。筑波の遊女たちは「筑波女郎衆」と呼ばれるほど有名であった。つくば道のうち中尊寺に近い筑波一丁目から三丁目に遊女屋が多く
「〽筑波三丁目の七色狐 わしも二、三度だまされた」(遊女を狐に例えている)
「〽筑波山から飛んでくるからす 金もないのにカオカオ(遊女を買おう買おう)と」
などという歌の文句が残っている。
あまりにも派手に商売し奉行所の目に余ったのだろうか、1801年(亨和1)に寺社奉行の手入れが入り旅籠屋11人と飯盛女(宿泊客の身のお世話をするという名目で置かれた売春婦)16人が売春の疑いで捕まった。手入れの際に逃げた飯盛女は捕まった者たちより多かったという。しかし後には労働力の確保の名目で人数制限付きで飯盛女を置くことが認められ、遊女屋は繁盛していたようである。
3.明治維新以降の筑波遊郭
明治時代になると廃仏毀釈によって中尊寺が破壊され参拝客が減り、1872年(明治5)には芸娼妓解放令が出たことにより県の役人が筑波に来て遊女たちの証文を返して親元に送り届けるようにと申しつけた。それにより遊女は残らず引き払ったとされ、遊郭は一時的に寂れたようだ。
しかしその後公娼制度(公に売春営業することに関する決まりごと)が整備され遊女屋は「貸座敷」、遊女・飯盛女・女郎は「娼妓」と呼ばれるようになり、公に売春営業を出来る地域が制定された。これが明治以降の遊郭である。茨城県では1875年(明治8)に「貸座敷渡世の許可地制定」にて県内7箇所の許可地が制定され、筑波もそのひとつとなり遊女屋は貸座敷として復活する。
『茨城県統計書』によれば1881年(明治14)からの貸座敷数と娼妓数が記録されており、筑波遊郭では明治時代は貸座敷数は5~7軒、娼妓数は12~28人の間を前後している。貸座敷の名前は水戸楼、稲葉楼、千歳楼、永屋楼、金澤楼、石橋楼、浅井楼などが記録に残る。(記録によっては水戸楼が水戸屋、浅井楼が浅屋など多少ブレる場合がある)。
4.大正時代から昭和時代、そして筑波遊郭の消滅
大正時代になると徐々に貸座敷数も娼妓数も減ってゆく。これは1918年(大正7)に筑波鉄道が土浦駅から筑波駅間で開通した影響が大きい。登山客は最寄りの筑波駅で下車し登山することになったため、これまで登山客のメインルートだったつくば道を通らなくなってしまったのだ。
昭和時代になるとこれは筑波に限らず全国的なことであるが、世界恐慌からの昭和恐慌の影響や遊郭より安くてお手軽に遊べて洋風で新しい性風俗産業「カフエー」に人気を取られて遊郭は衰退してゆく。1930年(昭和5)に出版された『全国遊廓案内』にはこう書かれている。
『筑波町筑波遊廓は茨城県筑波町にあって筑波山の中腹にある遊廓だ。(中略)昔から有名な所で筑波へ登山をする人は必ずこの遊廓の前を只では通り過ぎなかったものだ。貸座敷は合計3軒、娼妓は12人位いて、全部廻し制店は陰店を張って居る。(中略)芸妓を呼べば1時間1円10銭附(後略)』
貸座敷数も娼妓数もだいぶ少なくなっている。ちなみに廻し制とは娼妓が同時間に複数の客を取ること。娼妓が他の客を相手にしている間、客は待ちぼうけを食らうことになる。陰店というのは張り見世の逆。娼妓達が店頭の格子をめぐらせた部屋に並んで客を待つのが張り見世。陰店は店の中で客に娼妓を選ばせる。
1934年(昭和9)には最後に残った貸座敷3軒が料理店に転業することとなり茨城県保安課へ許可願いを出した。『廓清』によれば「廃娼の声高い折柄、旧幕時代からの貸座敷業を今日そのまま営むことは、一般登山客に不快の念を抱かせる結果になるから廃業し旅館兼料理店を経営するから許可されたい」と嘆願書を提出したという。
一方で隣の県である栃木県の新聞『下野新聞』では「カフエーの発展に益々経営難に喘ぎいたが遂に維持困難となり楼主K、N、T(元記事は実名だが略した)氏等は苦境切り抜け策について協議の結果廃業して料理店で更生することになり」としている。
いずれにせよ遊郭が時代にそぐわなくなり楼主たちは転業の道を選び、貸座敷がなくなったことにより筑波遊郭は消滅した。この時残っていた娼妓はたった4名であった。
5.筑波遊郭でのできごと
茨城県の新聞『いはらき』にはいくつか筑波遊郭でのできごとが記事にされているのでいくつか要約する。
■1895年(明治28)の「筑波町貸座敷の紛議」という貸座敷同士の揉めごとの記事。
『筑波町貸座敷6軒の中では水戸楼が一番繁盛していたが他の5軒はそれを面白くなく思っていた。
ある仲間会議の席にて水戸楼の主人の些細な言葉の端より紛糾し、水戸楼を仲間から除名してやる!と騒ぎになった。多勢に無勢と見た水戸屋主人は謝罪状を出し詫びたが5軒の主人たちはなかなか聞き入れず芸妓屋や饅頭屋や寿司屋などの出入業者を水戸屋に行かせないようにし困らせようとした。
すると水戸楼も逆ギレし自前で饅頭屋と寿司屋を開業し、芸妓2名を抱え娼妓も5名増やし完全にバトル状態に入ろうとしていたところ、その計画を洩れ聞いた者が仲裁に入った。しかし双方聞き入れず未だに競争しているという』
以上が要約。なおこの記事の約1か月後に「筑波町貸座敷紛議の和解」という見出しの続報が載っている。その記事の要約も以下の通り記す。
『その後貸座敷の主人達は旅人宿江戸屋主人吉岡某の奔走により和解することとなった。本紙(いはらき)に載った記事を見て貸座敷主人達はビックリしてケンカに水を差された形になり容易に和解に至ったと言える』
新聞に載せてやったお陰で和解できた、みたいな『いはらき』のドヤ顔が見えてきそうな話。ちなみに江戸屋とは現在も営業中の筑波山で最も古く最も大きな旅館。つくば道を上り切ったところにある。筑波のみならず茨城県内でも有数の老舗企業である。
■1896年(明治29)年「無理情死」という記事。
『真壁郡上野村坂入某(20)が貸座敷浅屋楼の娼妓かつ(18)としっぽり遊び翌朝目を覚ました何を思ったか隠し持ったナイフでまだ眠っているかつの腹を刺した。驚いて跳ね起きたかつをもう一刺ししようとする坂入、かつはあたふたと梯子を降りて下座敷に転がり込んだ。坂入はこれまでと思ったのかナイフを逆手に取って自分の腹に刺した。幸いにも両者とも傷は浅く命に別状はなく、坂入は楼主によって警察に引き渡された。』
筑波遊郭に限らず遊郭の客と娼妓の心中記事は非常に多い。両者お互いに死を覚悟する場合だけでなくこのように男が「お前を殺して俺も死ぬ」と勝手に襲い掛かるケースも多い。
■1897年(明治30)年「女郎に振られて発狂」という記事。
『筑波郡北条町君島某(21)は水戸楼の娼妓梅吉(20)を呼んだが散々に振られたので口惜しくて発狂し
「薄情阿魔(はくじょうアマ)生かしておくものか!」
と水戸楼に抜刀して暴れ込んだが駆け付けた警官に取り押さえられた。刀は実は竹べらに銀紙を貼っただけのものでブチ切れたわりにはどこか正気のところがあるらしい』
塩対応されて逆上する男はいつの時代もいるもの。それにしても女(アマ)を阿魔という当て字のセンスが凄い。
■1908(明治41)年「筑波町紅だより」という記事には貸座敷イチオシの娼妓が紹介されている。
『稲葉楼のかきつは格別美人ではないが元芸者なのでどこか垢抜けている上に親切だ。
水戸楼のみよしは清楚なガラではないが話術が妙に上手くチョロい男を巧みに操ることにかけてはナンバーワン。
永屋楼の小梅は才気にあふれるところが客にひどく気に入られている。
千歳楼の小金は肉付きが良くプニプニほっぺのえくぼが可愛すぎると涎を垂らす者少なからず。
金澤楼の重野は一見ツンと澄まして生意気っぽいが理屈にもならぬ理屈を理屈めかして喋るところに愛嬌がある。
浅井楼の小花はよく気が利き客を面白おかしく遊ばせてくれる。
石田楼(石橋楼の誤りの可能性あり)の小由はちょっと荒っぽいが明るくて元気が良いのが取柄。』
などと廓雀(遊郭通)が好き勝手に評価している。源氏名に「小」が付くのが多いのは当時の流行りなのだろうか。
■同じく1908(明治41)年「水戸楼娼妓の品評」という記事には水戸楼の娼妓4人についての記載がある。
『水戸楼の娼妓の源氏名はいずれも水戸楼の“み”の字にが付く。
操(20)は美人なのでそこそこ客はあるがとにかくお喋りで喋りまくって廻し客を待たせ過ぎてしまい大失敗をやらかす癖あり、
三好(25)も垢抜けた美人だが一旦寝たら客がどんなことをしても起きないし皮膚病なのかいつも体中を引っ掻き回すので後朝の別れを惜しむ客はなし、
緑(30)と稔(30)はいつもババアツラ下げてデレデレしているけれど癇癪持ちでちょっとの事でも腹を立てたびたび客とケンカする』
4人ともわりと容赦ない言われよう。この記事にある「三好」とは前の記事にある「みよし」と同一人物だろうか。
だとしたらそれぞれの記載にだいぶ温度差があるがそれは現代でも同じような気がする。
ともかく水戸楼が一番繁盛している、という明治28年の記事がウソのようである。
■1908(明治42)年「県下の遊廓と娼妓」という記事のうち筑波遊郭の内容。
『▲筑波町 貸座敷7軒、娼妓16歳以上20歳未満4人、20歳以上25歳未満12人、25歳以上30歳未満4人、30歳以上2人』
20代前半の娼妓が半数以上を占める。
■1909(明治43)年「筑波山麗より」という記事には娼妓21名の出身地が記載されている。
『本県(茨城県)人9名、栃木東京各3名、群馬県人2名埼玉新潟北海道各1名ずつ』
とのことで地元茨城県が突出して多く、隣の栃木県・埼玉県を合わせると半数を越える。
6.現在の筑波遊郭跡地

遊郭の再現地図を作成してみた。佐々木博(1983).「筑波門前町の立地生態」『筑波大学人文地理学研究』7巻及びゼンリン住宅地図より貸座敷・芸妓屋について分かっている箇所を記した。黄色くマーキングしているのがつくば道。貸座敷は緑の○印、芸妓屋は紫の○印、貸座敷名が分かっているものは妓楼名も記した。



つくば道を歩いてみた。このように坂になっており、今でも残る昔ながらの建物や石段・石垣の風情や山の下を見下ろせる景色が素晴らしい。

元永屋楼だった建物。東日本大震災まではユースホルテルとして使用されていた。

元芸妓屋。前述の「筑波門前町の立地生態」には「芸者屋」と紹介されている。前述の『全国遊廓案内』の通り遊郭では芸者遊びも出来た。最近の資料には「元旅籠屋」と記載されていることが多い。
浅井楼(浅屋)だった建物。

金澤楼があった場所。この建物も歴史ある感だが金澤楼だったかどうかは確認できていない。平屋の貸座敷というのはあまりないような気がする。
遊郭関連で現在確認できたものは以上である。
おまけ


遊郭探索の後はケーブルカーで山を登り、男体山と女体山の間にある御幸ヶ原というお土産屋やお茶屋が並ぶところに到着。

コマ展望台にある食堂で筑波山カレーを食べた。ライスは男体山女体山、コロッケは霞ケ浦を表している。結構おいしい。
カレーを食べた後はロープウェイでつつじが丘に降り、三井谷観光に寄るも休業もしくは廃業しているようでありガマ洞窟に入りたかったが閉鎖されていた。



レトロフューチャーなエレクトリックメカたちも朽ち果てており物淋しい気持ちに。
筑波山は江戸時代から昭和までのレトロが詰まっていたのだった。
【参考文献】
・茨城新聞社.『いはらき』
・下野新聞社.『下野新聞』
・日本遊覧社(1930).『全国遊廓案内』
・廓清会本部(1934).『廓清』第24巻,第12号
・佐々木博(1983).「筑波門前町の立地生態」『筑波大学人文地理学研究』7巻
・西邑 雅未, 黒田 乃生(2015). 「筑波山における観光ルートの変遷」『ランドスケープ研究』78巻,5号
・(財)国際科学振興財団,安藤邦廣,藤川昌樹(2002).『つくばの民家』.つくば市教育委員会
・工学院大学建築都市デザイン学科 後藤研究室(2006).『筑波の町並み』.つくば市教育委員会
・筑波大学安藤研究室・筑波大学藤川研究室(2001).『つくば市古民家調査報告書その3』.つくば市教育委員会
・筑波町史編纂委員会(1989).『筑波町史 上巻』
・筑波町史編纂専門委員会(1990).『筑波町史 下巻』
・奈良県立万葉文化館「万葉百科」
https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detailLink?cls=db_manyo&pkey=1759
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